第十一話:警告と選択
城に戻ってから三日後、交渉が動いた。
リオからの報告が届いた。ミラが外交局内の一人を説得することに成功した。停戦の枠組みについて、非公式の合意が形成されつつある。数字と条件が並んでいた。俺は一度読んでから、もう一度読んだ。
前進していた。
予想より速かった。ミラは動きが速いとリオは書いていた。その通りだった。速すぎる、という懸念も以前からあった。速く動けば、周囲に気づかれやすい。しかし今は、速さが功を奏していた。
紙を火にくべた。
炎が消えるのを見ながら、次の手を考えた。
二日後の朝、リオが直接来た。
城下の市場区画ではなく、城の裏手の小道だった。人目を避けた接触だった。リオの顔を見た瞬間に、内容が良くないと分かった。
「ミラが人間側の強硬派に疑われ始めています」
リオが言った。声は平静だった。しかし速かった。いつもより言葉が速かった。
「情報源は確かです。外交局内の強硬派が、ミラの動きを追い始めています。接触の痕跡を掴もうとしている」
「どの程度進んでいる」
「まだ確証はない。ただ、時間がない」
俺は少し考えた。
選択肢は二つだった。
一つは、今すぐミラを保護する。接触を一時的に切り、ミラを安全な場所へ移す。交渉は止まるが、ミラは守られる。
もう一つは、交渉を続ける。保護は後回しにする。今ここで動けば、交渉ルートが露見する可能性がある。強硬派が「魔族側と繋がっている者がいる」と確信する材料を与える。
右手の指を動かした。
誤差が出た。考えが速くなると、末端の精度が落ちる。
「今すぐ保護すれば、交渉ルートが露見するか」
「可能性はあります。ミラが突然動けなくなれば、強硬派は理由を探す。見つける前に動いていたことが、逆に証拠になりかねない」
「切れるか」
「接触を完全に切れば、ミラは孤立します。今の状況で孤立したミラが、どこまで黙っていられるかは分からない」
俺は少し間を置いた。
「交渉を止めるな。保護は後でいい」
即断だった。
リオが俺を見た。
「それは賭けだ」
「分かってる」
リオは少しだけ黙った。
「本当に分かっているなら、それでいい」
リオが動きかけた。
「待て」
俺が言った。
リオが止まった。
続く言葉が出なかった。
「……いい。行け」
リオは去った。
ダナが近くにいた。報告を聞いていたかどうかは分からなかった。何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
城の裏手の小道は静かだった。風が少しあった。
今の選択を、もう一度確認した。
交渗を止めない。保護は後回し。理由はある。今ここで動けば交渉ルートが露見する。数週間後に停戦の枠組みが固まれば、ミラを保護する余裕が生まれる。それまで持てば、問題はない。
計算は合っていた。
合っていた。
それだけのことだった。
廃屋の夜を、少しだけ思い出した。
乾パンを三つに割った老人の手。老人の荷物は空だった。それでも割った。計算ではなかった。
今の俺の選択は、計算だった。
二つが、頭の中で重なった。
重ならなくていい、と思った。重なっても、何も変わらない。選択は終わった。
城に戻った。
その日の午後、ダナが書状を持ってきた。
ミラが外交局内でさらに一人を動かすことに成功したという報告だった。交渉は続いていた。
俺は書状を読んだ。
読んでから、少し止まった。
ミラはまだ動いている。疑われ始めているのに、動きを止めていない。
「彼女は、まだ引き返せると思っています」というリオの言葉が、頭に残っていた。
書状を火にくべた。
夜になった。
部屋の椅子に座った。茶が置かれていたが、触れなかった。
眠れなかった。
眠れないことを、最初は認識していなかった。目を閉じていた。しかし眠れなかった。気づいた時には、かなり時間が経っていた。
理由を考えた。
出てこなかった。
計算は合っていた。保護を後回しにする理由はある。交渉が前進している今、ルートを守ることが優先される。ミラが疑われ始めているのは事実だが、まだ確証がない段階だ。今動くより、数週間後に動く方が、全体として損失が少ない。
計算は合っていた。
それでも眠れなかった。
胸の奥の軋みを確認した。今日は強かった。魔力を使った場面はなかった。しかし軋んでいた。
何が負荷になっているのか、考えた。
考えなくても分かった。
しかし今回は、考えなくても分かるだけでは、止まらなかった。
前にも、一度似たことがあった。
あの夜も、計算は合っていた。
今夜は後回しにした。あの夜は間に合わせなかった。どちらも計算の上での選択だった。
老人の顔が少しだけ浮かんだ。
すぐに沈んだ。
沈めた、の方が正確かもしれなかった。
夜明け近くに、ようやく浅い眠りに落ちた。
目が覚めた時、窓の外が白んでいた。
眠れなかった理由を、起きた後も正確には分からなかった。
分からないまま、立ち上がった。
今日もミラは動いている。交渉は続いている。保護の問題は、まだ猶予がある。
そう確認して、一日を始めた。
三日後、リオから報告が届いた。
今回は手紙ではなかった。直接来た。城下の市場区画だった。リオの顔を見た瞬間に、内容が分かった。
良くない顔だった。
「聞く」
俺が言った。
リオが答えた。
「ミラが告発されました」
部屋の温度が、少し下がった気がした。
「強硬派の工作です。魔王の内通者として、外交局内で告発が成立しました。現在、投獄されています」
俺は何も言わなかった。
リオも何も言わなかった。
二人の間に、確認する必要のないことがあった。三日前、俺が保護を後回しにした。その結果がこれだった。計算は合っていた。しかし間に合わなかった。
言葉にする必要がなかった。
しばらくして、リオが続けた。
「交渉ルートは遮断されました。ミラと繋がっていた外交局内の人間も、動きを止めています」
「ミラの状態は」
「投獄されています。それ以上の情報はまだありません」
俺は頷いた。
それだけだった。
リオが去り際に、もう一つ言った。
「別の報告があります。古参派がガルドを中心に結束し始めています。今週に入ってから、動きが変わりました」
俺は頷いた。
リオは去った。
一人になった。
二つの問題が、同時に重なっていた。
ミラが投獄された。交渉ルートが遮断された。古参派が結束し始めた。
計算し直す必要があった。
しかし今は、計算が始まらなかった。
眠れなかった夜のことを、まだ覚えていた。




