第八話:ガルドの正義
宮廷の北側、古参派が管理している旧戦議室だった。
窓が一つしかなかった。北向きの窓だった。光が入らない。昼でも薄暗い部屋だった。テーブルが一つ。椅子が向かい合わせに二脚。壁には古い傷跡がいくつか残っていた。剣痕か、魔法の焼け跡か、判断がつかなかった。長く使われていない部屋の匂いがした。
ガルドはすでに座っていた。
背筋を伸ばし、組んだ手を机の上に置いていた。その姿勢は、前回より硬かった。何かを決めてきた人間の構え方だった。俺が入っても立たなかった。頭も下げなかった。いつも通りだった。
俺も座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ガルドが先に口を開いた。
「一つ、聞いてもいいか」
問う形を取っていたが、答えを待つつもりはないだろう。続けさせた。
「陛下は、人間と話したことがあるか」
意外な入り方だった。
「ある」
「どういう話をした」
「いろいろだ」
ガルドは少し間を置いた。
「三十年前のことを、話す」
俺は黙って待った。
ガルドの話は、長くなかった。
三十年前、魔族と人間の間に、和平交渉があった。正式な外交ではなく、辺境での話し合いだったが、双方が真剣だった時期だった。ガルドはその交渉に、魔族側の使者として参加した。若い頃の話だった。
交渉の席に、ガルドの妻がいた。
妻は人間だった。交渉の通訳を兼ねて同行していた。言葉を信じていた女だった、とガルドは言った。言葉が通じれば、剣を置けると思っていた。
交渉は数日間続いた。双方が譲歩し、合意の形が見えてきた。停戦、交易、相互不可侵。すべての条件が整い、最後の署名を残すだけだった。
署名式の当日、人間側の代表は笑顔で現れた。
「妻が署名前の書状を確認するために手を伸ばした」
ガルドの口調は淡々としていた。報告書を読み上げるような声だった。感情が削ぎ落とされていた。だからこそ、逆に重かった。
「封を切った瞬間、術式が発動した。猛毒の霧だ。密室の中で、逃げ場はなかった」
部屋の温度が下がった気がした。
「妻は即死だった。交渉団の半数がその場で倒れた」
ガルドの組んだ手が、わずかに動いた。
「人間側はこう説明した。一部の過激派による暴走だったと」
ガルドが顔を上げた。片目がこちらを見た。
「違う。最初からそのつもりだった。和平を結ぶ気などなかった。時間を稼ぎ、油断させ、交渉の中心にいた者を消す。それだけだった」
一拍置いた。
「人間は約束の紙に血を塗って差し出してくる。血は、自分のものとは限らない」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
重かった。
俺は何も言わなかった。言えなかった。
反論できる材料がなかった。ガルドの言葉は、俺が人間側から見てきたものと、矛盾しなかった。勇者の死を政治利用する貴族。民衆を煽る演説家。交渉を潰すために動く強硬派。それだけではない。勇者として旅をしていた頃も見た。功績の奪い合い。責任転嫁。大義のために少数を切り捨てる王宮。
ガルドが間違っているとは、言えなかった。
「だから、交渉は無意味だと言いたいのか」
俺は聞いた。
「無意味とは言わん」
ガルドの答えは、想定と少し違った。
「ただ、信じるなということだ。紙に書かれた言葉を信じるな。握手を信じるな。笑顔を信じるな。人間が動く理由は、いつも一つだ。自分が得をするから動く。損をすると分かれば、止まる」
「それは魔族も同じではないか」
「同じだ」
即答だった。
「だから俺は魔族も信じない。信じるのは、力だけだ。力の均衡だけが、双方を止められる」
俺はガルドの顔を見た。
この男は、妻を失ってから三十年、その結論を持ち続けてきた。根拠がある。経験がある。感情ではなく、事実から導いた結論だった。
反論しようとした。
言葉が出てこなかった。
ガルドの論理の中に、穴が見えなかった。人間は損得で動く。力の均衡だけが止められる。その論理は、俺が見てきた現実と、確かに合致していた。
沈黙が続いた。
ガルドが立ち上がった。
「一つだけ言っておく」
俺を見下ろした。頭を下げない。いつも通りだった。
「陛下が何を考えているか、俺には分からん。ただ、人間に期待するなら、その代償は必ず払うことになる。三十年前の俺がそうだったように」
そこで一拍置いた。
「私は、二度とあの霧を吸うつもりはない。わが同胞にも、吸わせるつもりはない」
それだけ言って、ガルドは部屋を出た。
背を向けなかった。最後まで俺を見たまま、後退する形で扉を閉めた。
部屋に一人残った。
窓の外を見た。北向きの光のない窓だった。外は曇っていた。
ガルドの言葉を、もう一度頭の中で整理した。
人間を信じるな。力の均衡だけが止められる。
反論できなかった。できるはずがなかった。
しかし。
もし俺がガルドの論理を全面的に受け入れるなら、交渉は不要になる。力で押さえ込むだけでいい。魔族の力を示し、人間側に攻め込む余裕を与えなければいい。それがガルドの結論だった。
それは違う、と思った。
なぜ違うのか、と問われると、答えが出なかった。
ガルドが正しい世界線が、確かにあった。三十年前の交渉で妻を失い、力だけを信じると決めた。その判断は、その経験から見れば合理的だった。俺がガルドの立場にいたなら、同じ結論に至った可能性がある。
それでも。
交渉を続ける。
なぜか、と問われれば、答えられない。答えられないが、やめる気にもならない。名前を知らない村人の顔が、少しだけ浮かんだ。すぐに沈んだ。
胸の奥が軋んだ。
今日は魔力を使っていない。しかし軋んでいた。重い話を聞いた後は、別の部分に負荷がかかるらしかった。
城に戻る廊下を歩きながら、ミラのことを考えた。
「彼女は、まだ引き返せると思っています」というリオの一文が、頭に残っていた。
ガルドの話と、その一文が、頭の中で重なった。
三十年前のガルドの妻も、まだ引き返せると思っていたかもしれない。交渉が合意に向かっていた。あと一日で署名できた。そういう段階で、消された。
ミラが同じ立場に置かれる可能性を、ゼロとは言えなかった。
廊下を歩きながら、右手を確認した。指を動かす。問題ない。もう一度。わずかに遅れる。今日の会話は、情報の処理量が多かった。ガルドの熱に当てられた分だけ、別の負荷が出ているのかもしれなかった。
部屋に戻った。
ダナが茶を置いた。黙って出ていった。
「ダナ」
呼び止めた。ダナが振り返った。
「ガルドの面会の内容は、宮廷に報告しなくていい」
「分かった」
それだけだった。ダナは出ていった。
椅子に座った。茶には触れなかった。
ガルドが正しい世界線が、確かにあった。
それでも続ける。
なぜか、は分からない。分からないまま、続ける。それだけが、今の俺に言えることだった。
夜になった。
城の窓から外を見た。魔族領の夜は、人間の国より空が低い。星が出ていなかった。
明日、また動かなければならない。
ミラが動いている。ガルドが動いている。二つの動きが、同時に進んでいた。
どちらも、俺が選んだことの結果だった。
茶が完全に冷めていた。それでも飲んだ。味はしなかった。




