第六話:見逃した夜
報告が届いたのは、夜明け前だった。
辺境の集落で火の手が上がっている。魔族の一団が動いた。許可は出ていない。
俺は報告を聞き終えてから、地図を広げた。辺境の集落の位置を確認した。今いる城からの距離を測った。馬で動けば、間に合う。まだ間に合う距離だった。
間に合う。
その事実を確認してから、俺は地図を閉じた。
動かないことに決めた。
間に合わなかった、ではない。間に合わせなかった。理由は分かっている。だから否定しない。
理由は一つだった。
ガルドとの面会は明日に控えていた。古参派の動きは、その面会の前に起きた。偶然ではないかもしれなかった。試されているのか、あるいは既成事実を作ろうとしているのか、どちらかだった。どちらにしても、今ここで俺が動けば、古参派との対立が一気に表面化する。宮廷の均衡が崩れる。それはまだ早い。
魔族の求心力を維持するための選択だった。
計算は合っていた。
それだけのことだった。
ダナが部屋の外に立っていた。扉越しに気配がした。入ってこなかった。俺も呼ばなかった。
夜明けまで、そのまま待った。
現場に着いたのは、朝になってからだった。
間に合わなかった体で動いた。急いだ痕跡を残すために、馬を一頭潰した。魔族の一団はすでに引き上げていた。残っていたのは、焼け跡と、数人の生存者だった。
集落は小さかった。
十数軒程度の、辺境の農村だった。その半分以上が焼けていた。残った建物も、窓が割れ、壁が崩れていた。朝の光の中で、煙がまだ細く上がっていた。
生存者が数人、焼け跡の前に座っていた。
老人が一人。中年の女が二人。若い男が一人。子どもが三人。それだけだった。
俺は馬から下りた。
生存者に近づいた。全員がこちらを見た。魔族の姿を見て、最初に出た反応は逃げることでも、叫ぶことでもなかった。ただ、固まった。恐怖が体を固めていた。動く力が残っていなかった。
老人の目を見た。
空白だった。
何かを見ているようで、何も見ていない目だった。その目が、記憶の中の何かと重なった。三年前、焼かれた村の中で空を見ていた女の目と、同じ質の空白だった。
若い男が一人いた。子どもの隣に座っていた。こちらを見なかった。
俺は目を逸らさなかった。
逸らす資格がなかった。
これは俺が選んだ結果だった。間に合う距離にいた。動かないことを選んだ。その選択の結果が、今この老人の目の空白だった。計算は合っていた。しかし計算が合っていることと、正しかったことは、別の話だった。
子どもの一人が泣いていた。声を上げずに泣いていた。手に何かを握っていた。焼けて原形をとどめていない、何かだった。それでも離さなかった。
俺は一歩、近づいた。
手を伸ばしかけた。止めた。
理由は分からなかった。触れることが正しいのか、間違いなのか、判断がつかなかった。そういう話ではないのかもしれなかった。ただ、手が止まった。止まったまま、下ろした。
しばらく、その場に立っていた。
やがて、中年の女の一人が口を開いた。
「……助けに来たのか」
声は掠れていた。
俺は少し考えた。
別の言葉が、先に浮かんだ。飲み込んだ。
「遅かった」
それだけ言った。指先に、わずかな遅れがあった。
嘘ではなかった。間に合わなかった体で来ている。ただし、遅れた理由を言わなかった。言えなかった。
女は俺を見た。魔族の顔を、正面から見た。怒りでも感謝でもない目だった。ただ確認していた。この存在が何なのかを、測っていた。
しばらくして、女は視線を焼け跡に戻した。
俺も同じ方向を見た。
煙が、まだ上がっていた。
城に戻ったのは昼過ぎだった。
ダナが待っていた。何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
部屋に入った。椅子に座った。
右手を確認した。指を動かす。問題ない。もう一度。誤差が出た。今日は馬を走らせた。身体を動かすと、別の部分に負荷がかかる。覚えておく必要があった。
計算は合っていた。
その事実は変わらない。古参派との対立を今表面化させることは、得策ではなかった。魔族の求心力を維持するためには、今日の選択は正しかった。
それでも、老人の目の空白が、まだ残っていた。
消えない。消す方法もない。消す必要があるのかどうかも、分からなかった。
消えないなら、持ち続けるしかなかった。
そういうものだと、思った。
夜になった。
ダナが食事を持ってきた。黙って置いた。
「ダナ」
「何だ」
「今日の件を宮廷にどう報告する」
ダナが少し考えた。
「間に合わなかった、と報告する。それだけだ」
「それでいい」
ダナは出ていった。
食事には触れなかった。
胸の軋みを確認した。今日は少し強かった。馬を走らせた分だけ、身体に負荷がかかっていた。許容範囲だったが、余裕は少なかった。
明日はガルドとの面会がある。
今日の件について、ガルドがどう動くかは分からなかった。古参派が動いたことを、ガルドはどの程度把握しているのか。把握した上で面会を申し込んでいたのか。それとも別の用件なのか。
分からないうちは、先に動かない方がいい。
深夜、使いの者が来た。
書状を一通、持ってきた。封の形を見た。城の外から来たものだった。差出人の名前はなかった。
開いた。
短い文だった。
新たな勇者が、この世に生を受けた。
それだけ書かれていた。
俺は書状を閉じた。
開き直さなかった。内容は読んだ。読んだ。それで十分だった。
火にくべた。
炎が紙を舐めた。文字が消えた。灰になった。
窓の外を見た。夜は深かった。星は出ていなかった。
新勇者。
どこかで生まれた。どこかは分からない。男か女かも分からない。ただ、産まれた。
十五年から二十年後、その子が何者になるかは、今の選択にかかっている。聖痕が現れるかどうかは、この世界が俺を「討つべき魔王」と認識し続けるかどうかにかかっている。
今日の選択を考えた。
間に合う距離にいた。動かなかった。集落が焼けた。老人の目が空白になった。子どもが何かを握っていた。手を伸ばしかけて、止めた。その選択は計算として合っていた。しかし世界がそれをどう読むかは、計算とは別の話だった。
答えは出なかった。
出ないまま、夜が続いた。
翌朝、リオから短い書状が届いた。
内容は一文だった。
「人間側に、話を聞く用意がある女がいる」
それだけだった。
俺は書状を手に持ったまま、少し考えた。
昨夜の書状のことを考えた。新勇者が生まれた。時間は動き始めている。今日の集落のことを考えた。あの選択が、時間を買ったのか、それとも消費したのかは、まだ分からなかった。
しかし次を動かす必要があることは、分かっていた。
リオに返事を出した。
「話を聞く」
それだけ書いた。




