第四話:間者リオ
報告が上がってきたのは昼過ぎだった。
城の市場区画に見慣れない商人が出ている。香辛料を扱う行商人で、三日前から魔族領に入っている。不審な点はないが、動きが妙だという。見張りの言葉を借りれば、「売るより見ている時間の方が長い」らしかった。
俺は報告を聞き終えてから、少し考えた。
香辛料の行商人。人間。三日前から。動きが妙。
答えは、すぐに出た。
「その商人を、俺の部屋に通せ」
見張りが一瞬だけ間を置いた。魔王が人間の行商人を直接部屋に通すという判断を、処理しきれなかったのだろう。しかし俺が繰り返す前に、頷いて出ていった。
ダナが部屋の隅にいた。
「出ていてくれ」
ダナは何も言わずに出ていった。
扉が開いた。
入ってきたのは、中肉中背の人間の男だった。くたびれた外套。肩に布の鞄。帽子を目深に被っている。荷を下ろす動作は自然だった。だが重心の置き方が違った。常に出口を意識している立ち方だった。
帽子を取った。
知っている顔だった。リオだった。
三年間、共に旅をした仲間だった。斥候担当。感情より実利で動く人間だった。今の顔は俺が覚えているより少し老けていた。目の下に疲れがある。旅の疲れか、別の何かか、この段階では分からなかった。
リオは俺を見た。
上から下まで、ゆっくりと確認した。魔族の体。黒い爪。短い角。深い紫の目。全部確認してから、口を開いた。
「気持ち悪い」
第一声がそれだった。
「顔の話じゃない」
リオが続けた。視線が俺の胸の辺りで止まった。
「お前から出てる魔力が、おかしい。人間のものと魔族のものが、噛み合っていない」
「知ってる」
それだけで終わりにした。
リオの目が少しだけ動いた。知っている、という答えを、どう処理するか測っているようだった。やがて視線を上げた。
「顔が違う。声も違う。でも喋り方が同じだ。確認する必要もなかったな」
「それでも来た」
「確認しないと報告できない」
そういうことだった。
リオは部屋を見回した。出入口の位置。窓の位置。ダナがいないことを確認した。昔からそういう動きをする人間だった。癖は変わっていなかった。
「座れ」
リオは椅子を引いて座った。俺も座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
リオが先に口を開いた。
「何をするつもりだ」
俺は少し考えた。
和平、という言葉は頭にあった。しかしその言葉を出した瞬間に、何かが固まる気がした。まだ固めていい段階ではなかった。
「整理する」
リオの眉が、わずかに動いた。
「整理」
「今の状態は、どちらにとっても損だ。それを変える」
「どちら側に、どう変えるかは」
「まだ決めていない」
リオはしばらく俺を見ていた。値踏みではなかった。計算していた。この答えが、どういう意味を持つか。嘘をついているのか、本当に決めていないのか。そういう顔だった。
その視線と目が合った瞬間、指先に誤差が出た。
ほんの一瞬だった。テーブルに置いた右手の指が、意図より遅れて動いた。リオは気づいていないだろう。しかし俺には分かった。判断速度を上げると、末端から精度が落ちる。意思決定と劣化が、直結していた。
「仲間には話したか」
「お前が初めてだ」
「セナには」
「まだだ」
「言うな。あいつは感情で動く。今の段階で知らせると面倒になる」
俺と同じ判断だった。
「協力する気があるか」
リオが少し間を置いた。
「条件がある」
「聞く」
「情報は双方向にする。お前が魔族側で掴んだものはこちらに流す。こちらが人間側で掴んだものはお前に流す。ただし、俺が渡せないと判断したものは渡さない。それでいいなら組む」
「いいぞ」
即答した。
リオが続けた。
「もう一つ」
声のトーンが変わった。わずかに、しかし確実に。
「踏み外したら、殺す」
短かった。
「あの時と同じやり方でな」
部屋が静かになった。窓の外から、城の気配が遠く聞こえていた。
あの時、という言葉が何を指すか、説明は要らなかった。リオはそういう人間だった。知っている者だけが知ればいい言葉を、過不足なく選ぶ。
俺はリオの顔を見た。冗談ではなかった。
「いいぞ」
即答した。
リオが俺を見た。即答したことを、少し意外に思っているようだった。
「躊躇わないんだな」
「躊躇う理由がない」
「自分が殺されることへの躊躇いが、ゼロか」
「踏み外さなければいい話だ」
リオは少しだけ黙った。
「そうだな」
それだけ言った。
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
リオが立ち上がった。帽子を被り直した。商人の顔に戻った。その切り替えが、昔と変わらず速かった。
扉に向かう途中で、振り返った。
「一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「なぜ今も動いてる。死んで終わりにもできたはずだ」
答えはある。しかし言葉にした瞬間に軽くなる気がした。
「まだ分からない」
リオは少しだけ何かを考えるような顔をした。
「そうか」
それ以上聞かなかった。
扉が閉まった。
一人になった。
右手を確認した。指を動かす。問題ない。もう一度、速く動かす。誤差が出た。会話中より大きかった。集中が切れると、制御の精度が下がる。覚えておく必要があった。
リオのことを考えた。
条件は合理的だった。留保がある。リオが渡せないと判断した情報は渡さない。どういう基準で判断するのかは、動かしてみれば分かる。
約束のことを考えた。
あの時と同じやり方で、という言葉。警告ではなく確認だった。お前がどこまで自分を保てるか、俺は見ている。そういう意味だった。
なぜ今も動いているのか、という問いが残っていた。
答えは出なかった。名前も知らない女の顔が少しだけ浮かんだ。すぐに沈んだ。
ダナが戻ってきた。部屋の隅に茶を置いた。
「終わったか」
「ああ」
ダナは何も聞かなかった。茶を一口飲んだ。冷めていた。
窓を閉めた。夜になっていた。
リオからの最初の報告が届いたのは、それから十日後だった。薄い紙に、細かい文字で書かれていた。読んでから、火にくべた。
内容は短かった。人間側の現状。勇者の死後、何が起きているか。
読み終えて、気づいた。
怒りが、湧かなかった。
それが何を意味するのか、一瞬だけ止まった。勇者だった頃の自分なら、怒っていたはずだった。怒れなくなったのか、それとも最初から分かっていたのか。どちらなのか、自分でも判断がつかなかった。
判断がつかないまま、次を考え始めた。




