第三話:魔王の椅子と劣化
儀式が終わった。
骨の位置が変わっていた。手を持ち上げると、重さと長さが違う。視界の高さが変わっていた。天井が近い。床が遠い。昨日まで使っていた体の感覚が、全て更新されていた。
声は出さなかった。
出す理由がなかった。痛みは事実だが、それを表明しても何も変わらない。三人の術師は無言で作業を続けた。俺も無言で耐えた。終わった時、術師の一人が鏡を運んできた。
立ち上がった。鏡の前に立つ。
そこにいたのは、魔族の青年だった。黒みがかった肌。角は細く、まだ短い。目の色は深い紫だった。人間だった頃の自分とは、何一つ似ていなかった。
それでいい、と思った。
似ていない方がいい。
そのとき、胸の奥で何かが軋んだ。
痛みとは違った。儀式の余韻でもなかった。もっと内側、魔力の流れる経路のどこかで、何かが噛み合っていない。歯車が一枚ずれたまま回っているような、微細な不整合だった。
術師の一人が言った。
「確認が必要です」
促されるまま、魔力を少し流した。
瞬間、右腕に走った感覚を、どう表現すればいいか分からなかった。焼けるとも違う。砕けるとも違う。内側から何かが剥がれるような、構造そのものが歪む感覚だった。すぐに引っ込めた。
術師たちが顔を見合わせた。
「勇者の魔力回路が、残っています」
俺は黙って続きを待った。
「魔王の肉体と、適合していない。高出力を使うほど、回路が軋みます。使い続ければ——」
「崩れる」
俺が言った。術師が頷いた。
「どのくらいの速度で」
「使い方次第です。抑えれば、年単位で持つかもしれない。無理をすれば——」
「分かった」
それ以上聞く必要はなかった。
時間に限りがある。それだけが事実だった。どのくらいかは使い方次第で変わる。ならば計算すればいい。何のために、どこで、どれだけ使うか。それだけの話だった。
術師たちが部屋を出た。
俺は鏡の前に戻った。もう一度、自分の顔を見た。魔族の青年の顔が返ってきた。時間が限られていることを、この顔は知らない。
知らなくていい。
廊下に出た。宮廷に向かった。
謁見の間に入った瞬間、空気が変わった。
広い。記憶の中の魔王城とは、少し違った。あの夜、勇者として踏み込んだときは戦闘の最中だったから、場所の形よりも敵の配置しか見ていなかった。今は違う。柱の本数。出入口の位置。光の入り方。どこに立てば全員の顔が見えるか。歩きながら、自動的に測っていた。
魔族たちが並んでいた。
数は二十人ほど。年齢も役職もばらばらだった。共通しているのは、全員がこちらを見ていることだった。視線の質が、それぞれ違った。期待。警戒。品定め。軽蔑。品定めが一番多かった。
全員が頭を下げていた。
ただ一人を除いて。
老いた魔族だった。体格は大きいが、年齢で少し縮んでいる。白髪交じりの髪。傷の多い顔。列の中で、ただ一人、頭を下げていなかった。目だけが、年齢に似合わず鋭く、玉座に向かう俺を正面から追っていた。品定めではなかった。何か別のものだった。値踏みというより、照合していた。何かと、比べている。
玉座に座った。
背に触れる感触があった。重みが分散する。視線の高さが変わる。場を見下ろす角度になった。誰かが儀礼的な言葉を述べた。半分しか聞いていなかった。
静寂が落ちた。
誰も動かなかった。
やがて、その老いた魔族が前に出た。一歩だけ。それだけで、場の空気が変わった。他の者たちの気配が、わずかに後退した。
「ガルドと申します」
声は低く、よく通った。
「古くからこの城に仕える者です」
丁寧な言い方だったが、丁寧さの奥に何かあった。この男は俺に敬意を払っているわけではない。敬意を払う必要があるかどうかを、まだ決めていない。そういう目だった。
「一つ、進言させていただきたい」
俺は黙って続きを待った。
「前代の陛下が倒れ、人間どもは勢いづいています。今こそ魔族の力を示す好機。まず辺境の弱小集落を一つ、潰しましょう。それで十分です。陛下の威を内外に示す、最も手っ取り早い方法です」
周囲の空気が変わった。
賛同の気配だった。当然だという顔をしている者が半分以上いた。残りは様子を見ていた。ガルドの言葉は、この場の総意に近かった。
俺は一度、場を見回した。
全員の顔を、順番に確認した。誰がガルドに追随しているか。誰が中立か。誰が迷っているか。三秒もあれば十分だった。
ガルドに視線を戻した。
ガルドは動いていなかった。こちらが場を見回している間も、視線を外さなかった。待っていた。その待ち方に、焦りがなかった。答えがどちらに転んでも、この男は動じない。そういう待ち方だった。
「子どもがいる場所には手を出すな」
静かに言った。
場が、止まった。
声も、気配も、息遣いさえも。
ガルドの目が、ゆっくりと細くなった。反論しようとしているのか、意図を測ろうとしているのか、判断がつかなかった。どちらでもあるのかもしれなかった。
理由は言わなかった。
言う必要がなかった。理由を求めるなら求めればいい。答えるかどうかは、そのときに考える。今は宣言だけで十分だった。この一線だけは動かない。それだけを伝えた。
沈黙が続いた。
ガルドは何も言わなかった。視線だけが、しばらく俺の上にあった。値踏みを超えた何かが、その目の奥にあった。何と比べているのか、この段階ではまだ分からなかった。
やがてガルドが引いた。
反論ではなく、保留だった。今日のところは引く。しかし納得したわけではない。そういう引き方だった。背を向ける直前、ガルドの口元がわずかに動いた。言葉にはならなかった。何を言おうとしたのかは、分からなかった。
他の者たちも、それに倣った。
謁見は終わった。
部屋に戻る廊下を歩きながら、胸の奥の軋みを確認した。
さっきより少し強くなっていた。魔力を使ったわけではない。緊張で回路に負荷がかかったのかもしれなかった。あるいは、ただそういうものなのかもしれなかった。
時間に限りがある。
その事実を、改めて確認した。焦りではなかった。ただの確認だった。限りがあるなら、使い方を決めればいい。何のために使って、何のためには使わないか。それだけの話だった。
ガルドのことを考えた。
頭を下げなかった。最後まで視線を外さなかった。あの目は、単純ではなかった。ただの古参の強硬派ではない。何と比べていたのか。何が根拠になってあの確信があるのか、まだ分からなかった。分からないうちは、動かない方がいい。
部屋に戻った。
ダナが茶を置いて出ていった。何も言わなかった。
椅子に座った。茶には触れなかった。
子どもがいる場所には手を出すな、と言った。理由を問われなかった。問われなかったから答えなかった。しかし問われていたとしても、答えられたかどうか、分からなかった。
あの村の女の顔が、少しだけ浮かんだ。
すぐに沈んだ。
窓の外が暗くなっていた。魔族領の夜は、人間の国より空が低い気がした。気のせいかもしれなかった。
胸の軋みが、また少し強くなった気がした。
確認するように、右手を見た。魔族の手だった。爪が黒かった。第一話の朝に見た手と、形は同じだった。
握った。
開いた。
時間は限られている。それは変わらない。変わらないなら、使い方だけを考えればいい。
そう決めて、目を閉じた。
翌日、城の市場区画に見慣れない商人が来たという報告が入ったのは、それから三日後のことだった。




