表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者転生魔王物語  作者: ぃぃぃぃぃぃ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/7

第二話:産声と記憶

 腹が空いていた。

 それが最初の実感だった。

 思考でも認識でもない。ただ、内側からせり上がってくる空白のような感覚。満たされない何かが、身体の奥で軋んでいた。

 泣いていた。

 止める前に、声が出ていた。

 喉が勝手に震え、空気を押し出す。意識は後から追いつく。止めようとしても、止まらない。

 情けない、と思った。

 思ったところで、何も変わらなかった。

 足音が近づいた。

 重い。床を踏むたび、低く鈍い響きが返る。扉が開き、光が差し込んだ。

 大柄な女が立っていた。

 灰色がかった肌。短い角。粗く束ねた髪。使い込まれた作業着。装飾はない。

 無表情のまま、こちらを見ている。

 抱き上げられた。

 力は強いが、無理はない。迷いがなかった。

 扱いに慣れている手だった。

 すぐに口元へ温かいものが押し当てられた。

 思考が途切れる。

 次の瞬間には、飲んでいた。

 喉が勝手に動く。吸い、飲み下す。拒否する余地がなかった。

 空腹が満たされていく。

 それだけで、他のすべてが後ろへ押しやられた。

 ――こういうものか。

 考えながら、飲み続けた。

世界を救った勇者が、魔族の女に乳を与えられている。その事実を笑う気力も、今はなかった。

   何もできない時間が続いた。

 記憶はある。思考もある。

 だが身体が応えない。

 首が据わらない。手足が言うことを聞かない。視界は定まらず、焦点も合わない。

 経験は積み上がっているはずなのに、それを使う手段がない。

 ただ、見ていた。

 女の動き。手の使い方。力の入れ方。

 部屋の配置。出入りする影の数。立ち位置の変化。

 視線だけが働いていた。

 女は、ダナと呼ばれていた。

 他の魔族がそう呼ぶのを聞いた。

 それだけで十分だった。

 泣けば来る。飲ませる。拭く。寝かせる。

 無駄がない。

 触れ方に迷いはなく、過不足もなかった。

 優しさとも冷たさとも違う。必要なことを、必要なだけやる。

 その繰り返しだった。

 こちらを覗き込むこともない。

 だが、離れすぎることもない。

 一定の距離。

 それだけが、保たれていた。

   時間の感覚は曖昧だった。

 明るくなれば起き、暗くなれば横になる。

 その繰り返しの中で、少しずつ輪郭が整っていく。

 音が言葉になる。

 動きに意味が宿る。

 やがて、口がそれを真似た。

 最初の言葉は覚えていない。

 ただ、ダナが一度だけ目を丸くしたことだけが残っている。

 それから、話しかける声が増えた。

 内容は他愛もない。

 天気。食事。城の外の様子。

 独り言に近い調子だった。

 それでも、聞いていた。

 断片が積み重なる。

 城の形。人の流れ。空気の重さ。

 静かに、頭の中に置いていく。

   ある夜、歌が聞こえた。

 低い声だった。

 かすれ、揺れ、ところどころ外れている。

 それでも、同じ調子で繰り返される。

 旋律が耳に残った。

 ――知っている。

 思考が一瞬止まる。

 どこで聞いたか、すぐには出てこない。

 記憶の底をなぞる。

 夜。小さな集落。

 窓の隙間から漏れていた声。

 母親が、子どもに向けて歌っていた。

 同じ形だった。

 言葉は違う。響きも違う。

 だが、骨格が同じだった。

 なぜだ、と思う。

 答えは出ない。

 そのまま、考えるのをやめた。

   歌は続いた。

 一定の速さで、何度も繰り返される。

 揺れながら、それでも途切れない。

 気づけば、目を閉じていた。

 思考が鈍る。

 記憶が遠のく。

 そのまま、沈む。

 眠っていた。

   朝、目が覚めた。

 部屋は変わらない。

 ダナも、いつもの場所にいる。

 違うのは、それだけだった。

 何も考えずに眠ったという事実だけが残っていた。

   それからも、時々歌は続いた。

 聞くたびに、同じ感覚が起こる。

 理由は分からない。

 分からないまま、聞いた。

   城の空気が変わり始めた。

 出入りする者の数が増える。

 足音が重くなる。

 言葉の端に、別の意図が混じる。

 ダナの声も変わった。

 調子は同じだが、間が短い。

 余分な言葉が減る。

 何かが動いている。

 それだけは分かった。

   ある夜、歌はなかった。

 部屋は静かだった。

 目を閉じる。

 頭の中で、旋律をなぞる。

 完全ではない。

 それでも形は残っていた。

 繰り返す。

 繰り返す。

 やがて、そのまま意識が落ちた。

   朝、光が差し込んでいた。

 白んだ空気の中で、ダナの声が落ちる。

「近いぞ」

 短い言葉だった。

 それ以上は何も言わない。

 だが、それで足りた。

 何かが終わる。

 何かが始まる。

 その境目が、すぐそこまで来ている。

 身体がわずかに重くなる。

 理由は考えない。

 ただ、目を開けたまま、天井を見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ