第二話:産声と記憶
腹が空いていた。
それが最初の実感だった。
思考でも認識でもない。ただ、内側からせり上がってくる空白のような感覚。満たされない何かが、身体の奥で軋んでいた。
泣いていた。
止める前に、声が出ていた。
喉が勝手に震え、空気を押し出す。意識は後から追いつく。止めようとしても、止まらない。
情けない、と思った。
思ったところで、何も変わらなかった。
足音が近づいた。
重い。床を踏むたび、低く鈍い響きが返る。扉が開き、光が差し込んだ。
大柄な女が立っていた。
灰色がかった肌。短い角。粗く束ねた髪。使い込まれた作業着。装飾はない。
無表情のまま、こちらを見ている。
抱き上げられた。
力は強いが、無理はない。迷いがなかった。
扱いに慣れている手だった。
すぐに口元へ温かいものが押し当てられた。
思考が途切れる。
次の瞬間には、飲んでいた。
喉が勝手に動く。吸い、飲み下す。拒否する余地がなかった。
空腹が満たされていく。
それだけで、他のすべてが後ろへ押しやられた。
――こういうものか。
考えながら、飲み続けた。
世界を救った勇者が、魔族の女に乳を与えられている。その事実を笑う気力も、今はなかった。
何もできない時間が続いた。
記憶はある。思考もある。
だが身体が応えない。
首が据わらない。手足が言うことを聞かない。視界は定まらず、焦点も合わない。
経験は積み上がっているはずなのに、それを使う手段がない。
ただ、見ていた。
女の動き。手の使い方。力の入れ方。
部屋の配置。出入りする影の数。立ち位置の変化。
視線だけが働いていた。
女は、ダナと呼ばれていた。
他の魔族がそう呼ぶのを聞いた。
それだけで十分だった。
泣けば来る。飲ませる。拭く。寝かせる。
無駄がない。
触れ方に迷いはなく、過不足もなかった。
優しさとも冷たさとも違う。必要なことを、必要なだけやる。
その繰り返しだった。
こちらを覗き込むこともない。
だが、離れすぎることもない。
一定の距離。
それだけが、保たれていた。
時間の感覚は曖昧だった。
明るくなれば起き、暗くなれば横になる。
その繰り返しの中で、少しずつ輪郭が整っていく。
音が言葉になる。
動きに意味が宿る。
やがて、口がそれを真似た。
最初の言葉は覚えていない。
ただ、ダナが一度だけ目を丸くしたことだけが残っている。
それから、話しかける声が増えた。
内容は他愛もない。
天気。食事。城の外の様子。
独り言に近い調子だった。
それでも、聞いていた。
断片が積み重なる。
城の形。人の流れ。空気の重さ。
静かに、頭の中に置いていく。
ある夜、歌が聞こえた。
低い声だった。
かすれ、揺れ、ところどころ外れている。
それでも、同じ調子で繰り返される。
旋律が耳に残った。
――知っている。
思考が一瞬止まる。
どこで聞いたか、すぐには出てこない。
記憶の底をなぞる。
夜。小さな集落。
窓の隙間から漏れていた声。
母親が、子どもに向けて歌っていた。
同じ形だった。
言葉は違う。響きも違う。
だが、骨格が同じだった。
なぜだ、と思う。
答えは出ない。
そのまま、考えるのをやめた。
歌は続いた。
一定の速さで、何度も繰り返される。
揺れながら、それでも途切れない。
気づけば、目を閉じていた。
思考が鈍る。
記憶が遠のく。
そのまま、沈む。
眠っていた。
朝、目が覚めた。
部屋は変わらない。
ダナも、いつもの場所にいる。
違うのは、それだけだった。
何も考えずに眠ったという事実だけが残っていた。
それからも、時々歌は続いた。
聞くたびに、同じ感覚が起こる。
理由は分からない。
分からないまま、聞いた。
城の空気が変わり始めた。
出入りする者の数が増える。
足音が重くなる。
言葉の端に、別の意図が混じる。
ダナの声も変わった。
調子は同じだが、間が短い。
余分な言葉が減る。
何かが動いている。
それだけは分かった。
ある夜、歌はなかった。
部屋は静かだった。
目を閉じる。
頭の中で、旋律をなぞる。
完全ではない。
それでも形は残っていた。
繰り返す。
繰り返す。
やがて、そのまま意識が落ちた。
朝、光が差し込んでいた。
白んだ空気の中で、ダナの声が落ちる。
「近いぞ」
短い言葉だった。
それ以上は何も言わない。
だが、それで足りた。
何かが終わる。
何かが始まる。
その境目が、すぐそこまで来ている。
身体がわずかに重くなる。
理由は考えない。
ただ、目を開けたまま、天井を見ていた。




