第一話:共倒れの朝
剣が、折れた。
音は聞こえなかった。いや、聞こえていたのかもしれない。ただもう、何も処理できなかった。膝が石床に落ちる感触だけが、妙に鮮明だった。冷たい。魔王城の最奥、玉座の間の床は、夏の盛りでも凍てついている。
目の前に魔王がいた。
いた、という過去形が正しかった。胸に俺の剣が刺さったまま、魔王は立っていた。立っている、という言葉も既に正確ではなかった。倒れる途中だった。ゆっくりと、重力に従って、巨大な影が傾いていく。その胸から生えた剣の柄に、俺自身の手がまだ触れていた。
引き抜く力が、もう残っていなかった。
魔王の爪が俺の腹を貫いていた。いつ刺さったのか分からなかった。痛みは最初だけで、今はもう何も感じない。温かいものが足元に広がっているのは分かった。自分のものだと理解するまでに、少し時間がかかった。
二人同時に、床に倒れた。
静寂だった。
さっきまであれほど轟いていた魔力の奔流が、嘘のように消えている。石柱は半壊し、天井の一部が抜けて夜空が見えた。星が出ていた。こんな夜に星が出ているのが、なぜか腹立たしかった。
意識が遠のき始めた。
走馬灯というものが本当にあるとは思っていなかった。しかし確かにあった。ただ、映ったのは仲間の顔ではなかった。レナの顔でも、ガイルの顔でも、長い旅を共にした誰かの顔でもなかった。
名前を知らない女の顔だった。
三年前、最初の討伐に向かう途中で立ち寄った村があった。魔族の斥候に焼かれた村だった。俺たちが着いたときにはもう手遅れで、くすぶる灰の中に生き残りが数人いるだけだった。その中に、幼い子どもを抱えて座っていた女がいた。子どもはもう動いていなかった。女は泣いていなかった。ただ空を見ていた。
俺は声をかけられなかった。
かける言葉が分からなかった。必ず魔王を倒す、などという言葉を、その女に向けて言える気がしなかった。だから何も言わずに通り過ぎた。討伐を終えて帰路についたとき、あの村にもう一度寄ることはしなかった。
守れたはずだった。
もっと早く動いていれば。もっと強ければ。もっと賢ければ。そういう後悔ではなかった。ただ、声をかけられなかったことへの後悔だった。名前を聞けばよかった。それだけのことが、できなかった。
意識が、途切れた。
――。
目が覚めた。
最初に気づいたのは、体が重いということだった。異様に重かった。自分の体ではないような重さだった。次に、視界が低いことに気づいた。床が近い。いや、違う。俺が低い位置にいる。
玉座の間だった。
見覚えがある。さっきまでいた場所だ。しかし何かが違った。視点が違う。玉座が、遠くから見上げる高さにある。
玉座の前に、二つの骸があった。
一つは人間の男だった。青年と呼ぶには少し疲れた顔をしていたが、まだ若かった。剣士の装備を身に着けていた。胸に深い傷がある。
もう一つは魔王だった。巨躯。黒い外皮。胸に折れた剣が刺さったままだった。
どちらの骸も、まだ温かそうだった。
人間の男の顔を見た。
知っていた。
当然だった。それは俺の顔だった。
自分の手を見た。小さかった。爪が黒かった。人間の爪ではなかった。震えようとしたが、うまく体が動かなかった。首だけを動かして周囲を見回した。玉座の間には誰もいなかった。戦闘の余波で崩れた瓦礫が散乱し、血と焦げの匂いが充満していた。
記憶を確認した。
全て、あった。名前。仲間の顔。旅の記憶。あの村の女の顔。魔王城への最後の突入。剣が折れた瞬間の感触。全部残っていた。一つも欠けていなかった。
つまり俺は、死んで、魔族として生まれ直した。
その結論に至るまでに、おそらく一分もかからなかった。感情が追いつかなかっただけで、論理としては単純だった。
玉座を見た。
誰も座っていない玉座だった。
黒く、禍々しい装飾が施された椅子。かつて魔王が座っていた場所。今は空白だった。その空白が、何かを要求しているように見えたが、視線を逸らした。
勇者だった男の骸が床に転がっている。
魔王だった骸もある。
どちらも俺が知っている存在だった。
それなのに今の俺は、そのどちらでもない何かとして、この部屋の床に寝転んでいる。
答えは出なかった。
遠くで何かが崩れる音がした。城のどこかがまだ燃えているらしかった。このまま火が回ってくれば、この体も終わりだろうと思った。しかしそれを恐ろしいとは思わなかった。
ただ、まだ終わっていないという感覚だけがあった。
勝ったのか、負けたのか、それすら判然としなかった。
魔王は死んだ。勇者も死んだ。世界はそれを「英雄の勝利」と呼ぶだろう。勇者の墓に花を供え、祭りを開き、そしてその裏で税が上がる。
そういう連中の顔が、いくつか浮かんだ。名前は思い出せるのに、顔はぼやけていた。
あの女の名前を、まだ知らない。
それだけが、妙にはっきりしていた。
床の冷たさが、少しずつ体に染みてきた。魔族の赤子の体は、思った以上に外気に弱かった。泣けばよかったのかもしれないが、泣き方を忘れていた。
――代わりに、喉の奥で何かが鳴った気がした。
玉座の間の天井の穴から、夜明けの光が差し始めていた。
星は、もう見えなかった。




