第二十三話:行き来禁止
手続きは、城下の小さな建物で行われた。
広間ではなかった。謁見の間でもなかった。会議用の部屋だった。窓が一つある。机が一つある。椅子が四脚ある。それだけの部屋だった。
人間側の代理人が二人来ていた。エドと、もう一人の若い男だった。魔族側は俺とリオだった。ダナは外に立っていた。
書状が机に置かれた。
行き来禁止の範囲。例外規定。監視の方法。違反時の対処。数字と条件が並んでいた。
人間側の代理人が最初に署名した。
次にエドが署名した。
エドの手が震えていた。
小さく、しかし確かに震えていた。
俺はその手を見ていた。
エドは気づいていた。気づいた上で、止めなかった。震えたまま署名した。
次に俺が署名した。
リオが最後に証人として署名した。
それだけだった。
儀式的な場面はなかった。
誰も演説しなかった。誰も立ち上がらなかった。握手もなかった。
書状が交わされた。
人間側の代理人が書状を受け取った。俺もそれぞれの写しを受け取った。
代理人が立ち上がった。頭を下げた。出ていった。
エドは少し遅れて立ち上がった。俺を一度だけ見た。何も言わなかった。出ていった。
部屋に俺とリオだけが残った。
静かだった。
机の上に、書状の写しが置かれていた。
俺はそれを見ていた。
達成感はなかった。
どういう感覚があるべきなのか分からなかった。長い時間をかけて動いてきた。ミラが死んだ。ガルドが死んだ。古参派が壊れた。エドと繋がった。古参派残党を鎮圧した。その全部の結果として、この書状がある。
しかし何も感じなかった。
空白だけがあった。
空白が何を意味するのかも、分からなかった。
「これで正しかったのか」
気づけば声が出ていた。
リオが少し止まった。
答えは来なかった。
俺も答えを求めていたわけではなかった。ただ声が出た。
正しかったのかどうか、今この場で分かるわけがなかった。十五年後か二十年後に、新しい勇者が現れた時に、この行き来禁止が機能しているかどうか。その時に初めて、何かが分かるかもしれない。あるいは何も分からないかもしれない。
今は分からない。
それだけだった。
部屋を出た。
廊下に出た。
建物の外に出た。
ダナが外の壁に背を預けて立っていた。
少し離れた場所だった。
こちらを見ていた。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ダナはずっとそこにいた。
魔王になった最初の日から、ダナはそこにいた。報告を持ってきた。指示を聞いた。何も言わずに出ていった。何も言わずに戻ってきた。
その視線の意味を、考えなかった。
考える余裕がなかったのか、考えたくなかったのか、自分でも分からなかった。
ただ、ダナがそこにいた。
城に戻った。
全魔力の解放は、合意成立から六時間後に行われる予定だった。術式の準備が整うまでの時間だった。
部屋に戻った。
椅子に座った。
右手を確認した。指を動かす。動かなかった。もう一度。動かなかった。三回目。わずかに動いた。
誤差が最大になっていた。
今日の術式で全魔力を解放すれば、回路が完全に焼き切れる可能性があった。その後どうなるかは分からなかった。分からなくても、やるしかなかった。
机の上に、行き来禁止の設計書が広げられていた。
何ヶ月もかけて作ったものだった。数字と線と条件。これが今日から効力を持つ。
しかし何も感じなかった。
感じようとしても、何も来なかった。
空白だけがそこにあった。
六時間後、術式の場所へ向かった。
城の中枢部だった。魔力の流れを制御する石造りの部屋だった。術師たちが準備を整えていた。
リオが来ていた。ダナが来ていた。
「準備ができました」
術師の一人が言った。
「始めろ」
俺は答えた。
術式が始まった。
最初は静かだった。
それから、身体の内側で何かが動き始めた。
魔力が流れ出す感覚だった。普段は制御している流れを、全部開放する。堰を外すような感覚だった。
痛みが来た。
思っていたより大きかった。
足元が揺れた。踏みとどまった。
回路が軋んでいた。
誤差が出ていた。しかし今は誤差を確認する必要はなかった。全部使うのだから、誤差は関係なかった。
「境界が閉じていく感覚があった。どのくらい時間がかかったのか分からなかった」
やがて、術式が終わった。
床に膝をついていた。
いつ膝をついたのか分からなかった。
誰かが支えていた。ダナだった。
「……終わったか」
「終わりました」
術師が答えた。
「境界の確認は」
「問題ありません。術式は成立しています」
俺は頷いた。
立ち上がろうとした。
足が動かなかった。
しばらくそのままでいた。
ダナが何も言わなかった。支えたまま、ただそこにいた。
窓の外が夕方になっていた。
術式が終わってから、何時間か経っていた。
部屋に戻っていた。
机の上の書状を見た。
行き来禁止。
これが成立した。
これで正しかったのか、という問いが、また浮かんだ。
答えは来なかった。
今回も来なかった。
この問いに答えが来ることは、もうないかもしれなかった。
それでいい、と思った。
答えが来ないまま、続けていくしかなかった。
窓の外は暗くなっていた。
星が少し見えた。
久しぶりに見た気がした。
何日ぶりかは分からなかった。




