第二十四話:その朝
目が覚めた時、窓の外が白かった。
雪ではなかった。夜明けの光だった。
どのくらい眠っていたのか分からなかった。昨夜、術式が終わって部屋に戻った。椅子に座った。そこから先の記憶がなかった。いつの間にか眠っていた。
身体が重かった。
立ち上がろうとして、止まった。
右手を確認しようとした。
しなかった。
今日は確認しなかった。
窓の前に立った。
城の窓から、魔族の集落が見えた。
朝の光の中に、家々が並んでいた。煙が上がっているものもあった。誰かが起きている。誰かが動いている。
遠くで、子どもが走っていた。
小さかった。
角があるのか、ないのか、この距離では分からなかった。種族が分からなかった。
走っていた。
それだけだった。
見ていた。
気配があった。
振り返らなかった。
ダナだった。分かっていた。
ダナはしばらく何も言わなかった。
窓の近くに来た。
俺の隣に立った。
一緒に外を見ていた。
子どもはもう見えなくなっていた。どこかへ行ってしまった。
しばらく、二人で外を見ていた。
ダナが口を開いた。
「……あんた、泣いたことあるかい」
静かな声だった。
問いとも独り言ともつかない声だった。
俺は答えなかった。
ダナはしばらく外を見ていた。
「昔、一人いた」
低い声だった。
「最後まで、泣かなかった」
それだけだった。
ダナも続けなかった。
それだけで十分だった。
扉の外で音がした。
使いの者だった。
「リオ様からお手紙が届いております」
受け取った。
封を開いた。
リオの字だった。
「人間側では、もう魔王は死んだと言われています」
一行目にそれだけあった。
読んだ。
もう一度読んだ。
次の行を読んだ。
「現在の状況については、引き続き情報を集めています」
それだけだった。
新勇者については、何も書かれていなかった。
紙を二度たたんだ。
窓の外を見た。
さっき子どもが走っていた方向を見た。
もうそこには何もいなかった。
人間側では、魔王は死んだことになっている。
しかし新勇者の育成は続いているかもしれない。新勇者が現れれば、この境界は意味をなさなくなるかもしれない。
分からなかった。
分からなくていい、とは思えなかった。
ただ、今日は分からなかった。
窓を閉めた。
ダナがまだそこにいた。
「身体は」
「問題ない」
「そうは見えないが」
「問題ないと言った」
ダナは何も言わなかった。
俺も続けなかった。
確認はしなかった。
今日は確認しないと決めていた。理由はなかった。ただ、今日はしないと思った。
椅子に座った。
机の上に、昨夜の書状が残っていた。
ミラが始めて、ミラが死んで、ガルドが死んで、エドが繋いで、残党を鎮圧して、全魔力を解放して、この書状が生まれた。
人間側では、もう魔王は死んだことになっている。
それがどういう意味を持つのか、まだ分からなかった。
ダナが扉の近くで止まった。
「一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「後悔してるか」
「何を」
「全部だ。ここまで来た全部を」
俺は少しだけ考えた。
「分からない」
「分からないか」
「後悔しているかどうか、まだ分からない」
ダナは少し黙った。
「……そうか」
それだけだった。
「朝飯は持ってこさせる。食べろ」
「食欲はない」
「食べろ」
扉が閉まった。
一人になった。
泣いたことがあるか、とダナが聞いた。
答えなかった。
答えが出てこなかったからだ。
勇者だった頃、泣いたことがあったかもしれない。魔王になってから、泣いたことがあったかどうか分からなかった。
ミラが死んだ時。
ガルドが死んだ時。
廃城で一人だった夜。
泣いたかどうか、覚えていなかった。
覚えていないということは、泣かなかったのかもしれなかった。
どちらか分からなかった。
窓の外をもう一度見た。
集落が見えた。
朝の光の中に人が動いていた。
誰かが荷物を運んでいた。誰かが立ち話をしていた。
境界が閉じた翌朝だった。
しかし集落は動いていた。
世界は止まらなかった。
誰が死んでも。何が変わっても。世界は次の朝を始める。
それが、腹立たしかった。
腹立たしい、という感情が出てきたことに、少し遅れて気づいた。
最近は感情に気づくのが遅かった。
ダナの部下が朝食を持ってきた。
置いて、出ていった。
湯気が上がっていた。
食べる気にはなれなかった。
しかし食べた。
味はほとんど分からなかった。それでも食べた。
続けるためには、食べるしかなかった。
食べ終えてから、また窓の前に立った。
集落はまだ動いていた。
ガルドは一線を守ったまま死んだ。
エドの手は震えていた。
リオは今もどこかで情報を集めている。
ダナは朝食を持ってこさせた。
人間側では、魔王は死んだことになっている。
新勇者については、まだ何も書かれていない。
窓の向こうで、別の子どもが走っているのが見えた。
さっきと同じ方向ではなかった。別の子どもだった。
見ていた。
種族は分からなかった。
走っていた。
まだ、終わっていない。
その感覚だけが、朝の光の中に残っていた。
本作を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語を書き始めた時、最初に決めていたことが一つだけありました。
主人公に、答えを出させない。
勇者として生まれ、魔王に転生した男が、行き来禁止という棚上げの結末に辿り着くまでの話です。和平ではありません。共存でもありません。ただ、これ以上殺し合わないために、互いを見えなくする。それが精一杯だった。
書きながら何度も迷いました。
ミラを助けさせようとしたことがありました。ガルドと和解させようとしたことがありました。主人公に、もう少し分かりやすい答えを持たせようとしたことがありました。
そのたびに、やめました。
この主人公は、自分の感情に気づくのが遅い人間です。廃城で「両方滅ぼせば終わる」と考えた夜も、リオに「じゃあ今やれよ」と言われて初めて、自分がそれをできないと分かった。できない理由は最後まで言葉にならなかった。ただできなかった。
それだけが、この人物の一線でした。
登場人物の中で、書いていて最も難しかったのはリオです。
慰めない。否定しない。逃げ道も与えない。感情を共有しない。それでもそこにいる。
この距離感を最後まで保つことが、一番難しかった。第22話の「じゃあ今やれよ」という一言は、この物語で最も書くのに時間がかかった台詞です。煽りでも、説教でもなく、確認として機能させるために。
ガルドについては、書き終えてから気づいたことがあります。
この物語で最も正しい世界線を生きていたのは、おそらくガルドでした。妻を失い、力だけを信じると決め、理由のない一線など持たないと決めた。その結論は、その経験から見れば合理的だった。それでも最後まで、子どもだけには手を出さなかった。
主人公が「そうかもしれない」と答えたあの瞬間が、この物語で最も正直な場面だったと思っています。
第10話「軒下」の乾パンの場面は、物語全体の中心にあります。
老人の荷物は空だった。それでも割った。計算ではなかった。説明もなかった。ただ、そうした。
この場面が第11話のミラへの選択と、第14話のガルドへの最後の言葉と、第21話の子どもの保護を、言葉にならないまま繋いでいました。主人公自身は気づいていなかったかもしれません。しかし、あの夜の乾パンの硬さが、喉を通る時の摩擦が、この物語の終わりまで残り続けました。
最終話、主人公は右手を確認しませんでした。
今日は確認しないと決めていた。理由はなかった。ただ、今日はしないと思った。
これがこの物語の終わり方として、正しいと思いました。
崩壊がどこまで進んでいるか、知らなくていい日が来た。それだけのことです。大きな悟りではない。ただ、今日はそう決めた。
そして別の子どもが、また走っていた。
種族は分からなかった。
まだ、終わっていない。
この物語に付き合ってくださった読者の皆さんへ。
答えの出ない物語を、最後まで読んでいただきました。達成感のない結末を、空白のまま受け取っていただきました。
それだけで、十分です。
本当にありがとうございました。
もしよろしければ、
・印象に残った話や台詞
・ミラ、ガルド、ダナ、リオ、エドについての感想
・主人公はこの後どうなると思うか
・新勇者は現れると思うか
・この結末をどう受け取ったか
など、ぜひコメントで教えていただけると嬉しいです。
作者としても、とても好きな温度感で書けた作品でした。特に「説明しすぎない会話」や、「感情を言葉にし切らない空気」を組み立てる時間は、最後まで楽しかったです。
また次の作品でお会いできたら、その時はよろしくお願いします。




