第二十二話:合意前夜
合意の日程が確定したのは、夜だった。
リオが書状を持ってきた。
「人間側から最終的な返答が届きました。明日の朝、代理人を通じた合意成立の手続きが行われます」
俺は書状を受け取った。読んだ。
数字と条件が並んでいた。行き来禁止の範囲。例外規定。監視の方法。全部、これまで交渉してきた内容の通りだった。
「問題はないか」
「ありません。エドが最後まで押さえてくれました」
「そうか」
書状を机に置いた。
リオは出ていかなかった。
しばらく、二人で黙っていた。
城の中は静かだった。深夜だった。外に人の気配はなかった。
リオが口を開いた。
「一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「ミラのこと、お前のせいだと思ってるか」
俺は少し止まった。
問いの角度が予想外だった。しかし答えは即座に出た。
「思ってる」
リオは少し間を置いた。
「俺もだ」
短かった。
感情は乗っていなかった。しかし重かった。
リオはミラと直接会っていた。接触の仲介をしていた。「それは賭けだ」と言った男だった。賭けに負けた結果を、ずっと抱えていた。
二人の間に沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
窓の外で風が鳴った。
沈黙の中で、俺は机の書状を見ていた。
明日、合意が成立する。行き来禁止が成立する。ミラが命をかけて繋いだ交渉路は、ミラの死の後に別の形で結実した。
その事実が、どういう意味を持つのか、言葉にならなかった。
ミラが死ななければ、この合意には至らなかったかもしれない。ミラの死が古参派を蜂起させ、人間側の強硬派に動機を与え、その結果としてエドが現れた。因果は繋がっていた。しかし因果が繋がっていることと、正しかったことは、別の話だった。
しばらくして、口が動いた。
「だから全部壊せばいいと思った」
リオが黙って聞いていた。
「人間も魔族も、最初からなかったことにすれば。ミラも死ななかった。ガルドも死ななかった。連鎖も起きなかった」
言葉にしたのは初めてだった。
廃城で一人考えた時も、窓の外を見ながら浮かんだ時も、言葉として出さなかった。今日、初めて出た。
出してしまってから、少し止まった。
リオが口を開いた。
「じゃあ今やれよ」
俺は顔を上げた。
リオの顔は変わらなかった。感情を読めない顔だった。しかし声が、いつもより少しだけ低かった。
「全魔力を解放するつもりだろう。明日の術式で身体を全部使い切るつもりだろう。なら方向を変えれば済む話だ。人間も魔族も全部壊すなら、今やれ」
俺は少し黙った。
「……できない」
声が出た。
どこから出たのか分からなかった。考えて出したのではなかった。問いに答えるより先に、言葉が来た。
できない。
なぜできないのか、説明できなかった。
全部壊す力は、おそらくある。やろうと思えばできる。それでもできない。理由を言葉にしようとすると、何も出てこなかった。
ただできなかった。
また沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、最初のものとは質が違った。
リオは「じゃあ今やれよ」と言った。煽ったのではなかった。確認していた。お前は本当にそれができるのかを、確かめていた。
できないと分かった。
できないことが分かったことで、何かが少しだけ変わった。
全部壊せばいいという考えは、廃城の夜から今日まで、何度も浮かんでいた。浮かぶたびに怖くなって、確認して、沈めてきた。
しかし「じゃあ今やれ」と言われて、初めて分かった。
できない。
それだけだった。
理性が止めたのか、感情が止めたのか、それも分からなかった。ただできなかった。
その事実だけが残った。
リオがしばらく後に言った。
「壊れ切れないんだな」
責めていなかった。確認していた。
「……そうらしい」
それだけだった。
リオは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
部屋の中で、二人が黙っていた。
夜が続いた。
どのくらい経ったのか分からなかった。
窓の外が、少しずつ明るくなり始めた。
夜明け前の時間だった。
空が黒から紺へ変わっていく。
俺はその変化を見ていた。
明日の朝、合意が成立する。行き来禁止の手続きが始まる。全魔力を解放して、境界の術式を発動する。その後、自分の身体がどうなるかは分からない。
分からなくても、やるしかなかった。
リオが静かに立ち上がった。
「少し眠れますか」
「眠れなくても、身体を横にしておく」
「そうしてください」
リオは出ていかなかった。
窓の近くに立ったまま、外を見ていた。
俺も黙って空を見ていた。
二人で夜明けを待った。
空が少しずつ白んでいく。
夜が明けた。




