第二十話:勇者の影
情報が変わり始めたのは、行き来禁止の交渉が動き出してから十日後だった。
リオが報告書を持ってきた。いつもより厚かった。
「人間側の内部資料です。エドが入手しました」
受け取って、読んだ。
読み終えてから、もう一度読んだ。
交渉の記録だった。人間側の会議記録、補給計画、軍の再編スケジュール。表向きは行き来禁止に向けた調整だった。しかしその間に、別の数字が混じっていた。
「新勇者の育成が、具体的なスケジュールで動いている」
「はい」
「交渉は時間稼ぎか」
「その可能性が高いかと」
リオは感情を乗せずに言った。
俺は書類を机に置いた。
分かっていた。動機は問わないと言っていた。利用されていたとしても、行き来禁止が成立するなら構わないと思っていた。
それでも。
数字を見ていると、胸の奥で何かが動いた。
「さらに追加があります」
リオが別の紙を出した。
「勇者の血を使った対魔族兵器の研究が、人間側の中央教会で進んでいるという情報です」
「確度は」
「高いです。複数の経路から同じ情報が来ています」
俺は少し止まった。
勇者の血。対魔族兵器。
かつて自分が呼ばれていた名前の血が、今度は魔族を殺す道具になる。
皮肉としては出来すぎていた。笑えない話だった。
また作るのか。
また始めるのか。
また、世界を殺し合わせるのか。
右手を確認した。指を動かす。問題ない。もう一度。遅れる。
全部壊してしまえ、という考えが、また浮かんだ。
人間も魔族も。境界も歴史も。全部なければ、この連鎖は起きない。
簡単な話だった。
あまりにも簡単だったから、浮かんだ瞬間に怖くなった。
「陛下」
リオの声で、視線が戻った。
「大丈夫ですか」
「問題ない」
問題はあった。しかし言葉にしなかった。
「エドには伝えるか」
「一部は伝えます。全部を見せると、エドが動けなくなる可能性があります」
「どこまで見せる」
「交渉が時間稼ぎに使われている可能性だけを示します。それでも動けるかどうかは、エド次第です」
「動けないかもしれない」
「はい」
俺は少し考えた。
「それでも伝えろ。隠して使い続ける気にはなれない」
リオが少し止まった。
「合理的な判断ではありません」
「分かってる」
「なぜ」
俺は少しだけ考えた。
「廃屋の夜を、覚えているか」
「はい」
「乾パンを割った老人は、計算していなかった」
リオは答えなかった。
俺も続けなかった。
それだけで十分だった。
エドへの連絡を準備しているその夜、リオから緊急の報告が来た。
「強硬派がエドの動きを察知しました。暗殺部隊が出ています」
「場所は」
「東部の旧街道です。エドは今夜、人間側の融和派と接触する予定でした」
俺は立ち上がった。
「行く」
「護衛を」
「人数を動かせば気づかれる」
「身体が」
「行くと言った」
ダナが何か言いかけた。止めた。
コートを掴んで、城を出た。
旧街道に着いた時、すでに戦闘が始まっていた。
暗殺部隊は四人だった。エドは一人だった。逃げ場のない路地の入口で、壁を背に立っていた。
動いた。
最初の一人は声を上げる前に倒した。次の一人が振り返る前に距離を詰めた。三人目が武器を構えた。右手で制御した。誤差が出た。動きが一拍遅れた。それでも間に合った。四人目が逃げようとした。足を止めた。
静かになった。
口の中に鉄の味があった。いつからあったのか分からなかった。
エドが壁から離れた。呼吸が乱れていた。血が出ていた。深い傷ではなかった。
俺を見た。
「なぜ助けた」
直接的な問いだった。
「お前が死んだら交渉相手がいない」
エドは少し黙った。
「それだけか」
「それだけだ」
エドはもう一度俺を見た。
本音ではないことは、二人とも分かっていた。
エドが先に視線を外した。
「……ありがとう」
「礼は要らない。交渉の続きをしろ」
「交渉が時間稼ぎに使われているかもしれないと分かっていて、続けるのか」
俺は少し止まった。
「知っていてもやるのか」と聞いているのではなかった。確認していた。自分に向けた問いでもあるような、声だった。
「ああ」
「理由は」
「他に選択肢がない」
エドは少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。
「俺と同じだな」
「そうかもしれない」
帰り道、右手を確認した。
指を動かす。問題ない。もう一度。遅れる。戦闘中の誤差が、まだ残っていた。
全部壊してしまえ、という考えは、戦闘の間は浮かばなかった。
動いている間は、次の手だけを考えていた。
止まると、また浮かんだ。
浮かんだことを、確認した。確認して、歩き続けた。
城に戻った時、ダナが待っていた。
「遅かった」
「問題なかった」
「怪我は」
「ない」
ダナは俺の手を見た。右手の甲に、制御しきれなかった魔力が焼いた痕があった。誤差の結果だった。
「ないとは言えないな」
「大きくはない」
ダナは何も言わなかった。
しばらくして、口を開いた。
「古参派の残党が動いています」
「どういう動きだ」
「行き来禁止の方針に反発しています。永久降伏だとして、結束し始めているという報告が入っています」
「規模は」
「まだ小さい。ただ、速度が早い」
「監視を続けろ。ただし、向こうが動くなら俺が直接対応する」
ダナが少し止まった。
「同族に力を使うことになります」
「分かってる」
「それでいいのか」
俺は少しだけ間を置いた。
「分からない。ただし、止まれない」
ダナは何も言わなかった。
俺も続けなかった。
部屋に戻った。
机の上に、行き来禁止の設計書が広げられていた。
数字と線と条件。
これが正しいのかどうか、まだ分からなかった。
利用されているかもしれない。間に合わないかもしれない。身体が持たないかもしれない。
それでも動くしかなかった。
窓の外は暗かった。
星は見えなかった。
全部壊してしまえ、という考えが、また静かに浮かんだ。
今回は少しだけ長く残った。
それを確認して、目を閉じた。




