第十九話:分断の設計
雪は三日経っても止まなかった。
灰色の空から落ち続ける白が、窓の外の世界を静かに埋めていく。
執務室の机には、大陸全域の地図が広げられていた。
人間側。 魔族側。 その境界線。
以前までは曖昧だった線を、今は一つずつ引き直している。
人間側から魔族領へ。 魔族領から人間側へ。
互いの行き来を止める。
完全封鎖ではない。 だが、接触を断つ。
和平ではなかった。 共存でもない。
棚上げだった。
十五年後か、二十年後か。 新しい勇者が現れれば、また何かが始まるかもしれない。
それでも今は、これ以上の連鎖を止めるしかなかった。
それしか思いつかなかった。
「北部交易路は閉鎖済みです」
リオが淡々と言う。
「問題は東側です。難民流入が止まりません」
「検問を増やせ」
「兵が足りません」
「なら結界を張る」
短く返しながら、地図へ新しい印を書き込む。
中立都市。 崩壊した交易拠点。 戦火で消えた村。
その全てを切り分けていく。
「人間側の合意は、エド経由で動かしますか」
「ああ。ただし全部は話すな。段階的に動かせ」
リオは小さく頷いた。
「交渉材料は」
「恐怖だ」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
「このまま戦争が続けば、どちらも消耗する。新勇者が育つ前に、人間側も限界に達する。数字で示せ」
「善意では動かさない、と」
「動いてくれるなら、動機は問わない」
リオは書類へ視線を落とした。
「魔族側は」
「古参派は壊滅した。残党の意見は切る。ただし中立派は固めろ」
「防衛措置として説明しますか」
「ああ。戦争継続より損失が少ないと理解させる」
淡々とした会話だった。
救いのある話は、一つもない。
「代償について確認します」
リオが視線を上げる。
「大陸規模の境界結界となると、全魔力解放が必要になります」
「分かってる」
「身体の崩壊が進みます」
「分かってると言った」
返した声は、自分でも驚くほど静かだった。
最近は、夜に眠れない日が増えていた。
全身の骨が軋むように痛む。 視界が揺れる。 味覚はとうに失われていた。
右手を見下ろす。
指を動かす。
問題ない。
もう一度動かす。
少し遅れる。
三度目。
さらに遅れた。
誤差が広がっている。
魔力制御の限界が近いことは、自分でも理解していた。
それでも止まれなかった。
「……やるしかない」
掠れた声が落ちる。
リオは数秒だけ沈黙し、それ以上は何も言わなかった。
「エドへの接触から始めます」
「ああ」
リオが一礼し、部屋を出ていく。
静寂が戻った。
窓の外では雪が降り続いている。
白く。 静かだった。
地図へ視線を戻す。
これは和平ではない。
ミラが望んでいたものとは違う。 ガルドが命を賭して守ろうとしたものとも違う。
どちらにも届かない何かを、無理やり押し込めようとしているだけだった。
それでもやる。
他に選択肢がなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
不意に、扉が静かに開いた。
気配だけで分かる。
「……セナか」
「ああ」
短い返事だった。
振り返る。
セナは以前より痩せて見えた。
目の下には疲労が残っている。
それでも、数歩分の距離は変わらなかった。
近づきもしない。 離れもしない。
長い沈黙が落ちる。
市場で別れた時とは違う沈黙だった。
あの時は、まだ互いに何かを待っていた。
今は違う。
もう、戻れないことだけを理解していた。
「行き来禁止の噂、聞いた」
返事はしなかった。
「正気とは思えない」
「そうかもな」
セナは少し目を伏せた。
「……勇者に戻れとは言わない」
静かな声だった。
「もう、そんな段階じゃないことくらい分かってる」
怒ってはいなかった。
責めてもいない。
ただ、酷く疲れていた。
「お前が何を背負ってるのか、全部は分からない。でも」
セナはゆっくり息を吐く。
「……お前が決めたことなら、もう何も言わない」
それだけだった。
説得もない。 理想もない。
ただ、諦めと承認の中間だけが残っていた。
俺は何も答えなかった。
答えられなかった。
今の自分の言葉が、何かを汚してしまう気がした。
セナはしばらくこちらを見ていたが、やがて静かに踵を返す。
呼び止めない。
セナも振り返らなかった。
和解ではなかった。
決別でもない。
ただ、進む地獄が違うことだけを理解した者同士の、最後の確認だった。
扉が閉まる。
静寂。
雪はまだ降り続いている。
右手を見た。
指を動かす。
遅れる。
誤差が、また広がっていた。
翌日から、交渉は動き始めた。
エドへの接触。 人間側内部への打診。 中立派への根回し。
数字を使った説得。
静かに。 だが確実に。
同時に、魔族側の宮廷も固めていく。
行き来禁止は、防衛措置だと説明した。
戦争継続より損失が少ないと。
動いてくれるなら、動機は問わなかった。
三日後。
リオが再び報告書を持ってきた。
「人間側に、応じる可能性がある者がいます」
「強硬派は」
「まだ気づいていません。ただし時間の問題です」
「露見した時の対処を先に考えておけ」
「了解しました」
リオは一度頷き、それから少しだけ間を置いた。
「もう一件あります」
「聞く」
「人間側で、新勇者育成の動きがあります」
短い沈黙が落ちた。
「……確定か」
「まだ断片的です。ただ中央教会が異常な速度で聖遺物を回収しています」
勇者。
その単語だけが、胸の奥に嫌な音を残した。
かつて自分が呼ばれていた名前。
今ではもう、遠い亡霊みたいなものだった。
「交渉を利用している可能性は」
「高いかと」
「そうか」
それだけ返す。
リオは静かに一礼し、部屋を出ていった。
一人になる。
窓の外は暗かった。
星は見えない。
利用されていたとしても、行き来禁止が成立するなら、それでいい。
動機は問わない。
動いてくれるなら、それでいい。
そう思いながら、窓を閉める。
新勇者。
その言葉だけが、頭の奥に残り続けていた。
――全部、壊してしまえばいい。
一瞬。
本気でそう思った。
人間も。 魔族も。 境界も。 歴史も。
全部。
窓に映る自分の顔を見る。
暗闇の向こうで、右手が微かに黒く明滅していた。




