第十六話:どん底
城を出たのは、夜明け前だった。
護衛は連れていかなかった。
ダナにも言わなかった。
リオには、多分、気づかれていた。
それでも止められなかった。
止められたら、多分、戻っていた。
だから何も言わなかった。
雪は止んでいた。
空気だけが冷えていた。
馬を一頭だけ走らせる。
行き先は決めていた。
北西の旧戦線跡地。
山中に放棄された廃城。
何十年も前、人間との戦争で前線司令部として使われていた場所だった。
今は誰も使っていない。
近づく者も少ない。
途中、いくつかの集落を通った。
魔族の集落だった。
煙が上がっていた。
焼け跡もあった。
人間側の報復か、古参派との戦闘かは分からなかった。
確認する気にもなれなかった。
ただ通り過ぎた。
自分でも驚くほど、何も感じなかった。
感情が消えたわけではない。
逆だった。
感情が重すぎて、表面に出てこなかった。
廃城に着いた頃には、日が落ち始めていた。
石壁は崩れ、塔は半分ほど失われていた。
雪が残っている。
誰もいない。
静かだった。
馬を繋ぎ、中へ入る。
扉は外れていた。
中は冷えていた。
かつて玉座でも置かれていたのだろう広間に、崩れた長椅子が残っていた。
埃を払って座る。
それだけで、妙に疲れた。
ここ数日、ほとんど眠っていなかった。
目を閉じる。
ミラの顔が浮かぶ。
最後に見た顔だった。
疲れていた。
それでもこちらを見ていた。
何か言いかけていた。
最後まで聞かなかった。
聞けば、判断が揺らぐと思った。
だから切った。
合理的だった。
正しかった。
そのはずだった。
「……正しかった、か」
声に出してみる。
廃城の中で、やけに響いた。
守ろうとしたものは、何一つ残らなかった。
交渉は壊れた。
古参派は離反した。
人間側は報復した。
ミラは死んだ。
正しかったはずの判断の先に残ったのが、それだった。
右手を見る。
指先がわずかに震えていた。
誤差は、まだ消えていない。
むしろ広がっていた。
思考と身体が噛み合っていない感覚がある。
壊れ始めている。
それだけは、はっきり分かった。
広間の天井を見上げる。
崩れた隙間から、灰色の空が見えた。
静かだった。
ここには誰もいない。
ダナも。
リオも。
ガルドも。
初めて、一人だった。
その事実に、少し遅れて気づく。
魔王になってから、常に誰かがいた。
監視でもあり、支えでもあった。
だが今は違う。
本当に、一人だった。
静寂だけが残っていた。
耳鳴りみたいに、静かだった。
そこで初めて、思った。
「……両方、滅ぼせば終わるのか」
言葉にした瞬間、自分の中で何かが止まった気がした。
人間も。
魔族も。
最初から存在しなければ。
争いも。
報復も。
ミラの死も。
全部、なくなる。
その考えは、恐ろしいほど自然に頭へ馴染んだ。
止まらなかった。
人間は止まらない。
古参派も止まらない。
俺も、もう止められない。
なら。
全部消せば終わる。
簡単な話だった。
あまりにも簡単で、自分でも驚いた。
そこで初めて、自分が本気でそう考えていることに気づいた。
背筋が冷えた。
怖かった。
だが同時に、少しだけ安心している自分もいた。
終わらせる方法がある。
そう思ってしまった。
その瞬間、自分がどこまで壊れ始めているのか理解した。
笑いそうになった。
いや、実際に少し笑っていたのかもしれない。
乾いた音が喉から漏れる。
その時だった。
「随分と、物騒な結論ですね」
声がした。
反射的に立ち上がる。
入口に、リオが立っていた。
黒い外套に雪が積もっている。
「……いつからいた」
「全部聞いていました」
隠す気もない声だった。
俺は息を吐いた。
「追ってきたのか」
「はい」
「ダナか」
「居場所を知っていたのは、私だけです」
つまり、最初から気づかれていた。
馬鹿らしかった。
俺は崩れた壁にもたれた。
「説得に来たのか」
「いいえ」
即答だった。
リオは広間の中央まで歩いてくる。
足音だけが響く。
「陛下が何を考えるかは自由です」
「……止めないのか」
「止めても、今の貴方は聞かないでしょう」
その通りだった。
だから何も言い返せなかった。
リオは少しだけ俺を見た。
感情の読めない目だった。
それから、静かに言った。
「ですが、一つだけ困ります」
「何がだ」
「お前が消えたら、誰が魔王をやる」
思考が、一瞬止まった。
あまりにも実務的だった。
慰めでもない。
説教でもない。
責任論ですらなかった。
ただ、現実の確認だった。
戦況。
補給。
国境。
古参派。
人間側。
俺が投げ出した瞬間、全部崩れる。
それだけの話だった。
張り詰めていた何かが、妙な形で緩んだ。
「……っ」
喉の奥から音が漏れる。
「はは……」
乾いた笑いだった。
自分でも驚くほど、不格好だった。
笑い方を忘れていた人間が、無理やり笑ったみたいだった。
リオが眉を寄せる。
「笑うな。気持ち悪い」
俺はさらに少し笑った。
「……お前だけだな。そういうこと言うのは」
「他の連中は気を遣いますから」
「お前は遣わないのか」
「必要ありません」
即答だった。
その即答が、妙におかしかった。
また少し笑いそうになる。
リオは露骨に嫌そうな顔をした。
「本当に気持ち悪いですね」
「酷いな」
「事実です」
短いやり取りだった。
それだけだった。
それ以上、何も要らなかった。
リオは慰めなかった。
俺も感謝しなかった。
それでも、多分、救われていた。
ほんの少しだけ。
沈黙が落ちる。
廃城の隙間から風が吹き込んでいた。
寒かった。
だが、さっきまでより呼吸は楽だった。
「……戻れと言いに来たのか」
「最終的には」
「最初ではないんだな」
「最初から戻れと言っても、帰らないでしょう」
「よく分かってるな」
「長い付き合いですから」
そこでリオは一度視線を外した。
「ダナが城で誤魔化しています。陛下が不在だと知られれば、古参派残党も、人間側も動きます」
「……迷惑をかけたな」
「今さらです」
それも事実だった。
俺は壁から背を離した。
身体が重い。
だが、さっきまでよりは動けた。
「少しだけ休んだら戻る」
「はい」
リオはそれ以上言わなかった。
俺も言わなかった。
窓のない廃城の上では、夜空が広がっていた。
星は見えなかった。
雪がまた降り始めている。
白かった。
静かだった。
その静けさの中で、俺はゆっくり目を閉じた。
終わらせる方法を考えてしまった。
その事実は消えない。
多分、これからも。
だが同時に、まだ全部を壊す前に、確認しなければならないものが残っていることも、少しだけ理解していた。
リオがいる。
ダナがいる。
ガルドはもう戻らないかもしれない。
ミラも戻らない。
それでも。
まだ終わっていない。
その時だった。
リオが、不意に口を開いた。
「……一つ、報告があります」
「何だ」
「人間側から接触がありました」
俺は目を開けた。
「誰だ」
「若い兵士です。単独でこちらへ接触してきました」
「罠か」
「可能性は高いです」
「目的は」
リオは少しだけ間を置いた。
「和平交渉を求めています」
風が止まった気がした。
「……人間側の兵士が?」
「はい」
「名前は」
「エド」
聞き覚えはなかった。
だが、リオの顔を見る限り、それだけでは終わらないらしかった。
「そいつは言っていました」
リオが続ける。
「『焼けた集落の夜を、魔王は覚えているか』と」
話六の夜だった。
焼け落ちた集落。
雪。
炎。
泣き声。
あの夜の記憶が、一気に蘇る。
リオが静かに言った。
「……会いますか」
俺は少し黙った。
それから、ゆっくり答えた。
「ああ」
雪は、まだ降り続いていた。




