第十三話:弾劾
宮廷への廊下を歩きながら、誤差を確認した。
右手を動かす。問題ない。もう一度。わずかに遅れる。今朝は昨日より大きかった。眠れていないせいかもしれなかった。眠れていないことと誤差の関係は、まだ整理できていない。
整理している時間はなかった。
謁見の間の扉が見えた。
ダナが扉の前に立っていた。
「準備はいいか」
「ああ」
「魔力を使うな」
俺が先に言った。
ダナは少し間を置いた。
「分かった」
扉が開いた。
謁見の間は、いつもより人が多かった。
宮廷の構成員の大半が集まっていた。古参派だけではない。中立の者たちも来ていた。公開討議の形を取っている以上、欠席は立場を示すことになる。だから全員来ていた。
前列に、見覚えのある顔が並んでいた。
古参派の将校たちだった。それぞれの表情は違った。怒りを表に出している者。冷静を装っている者。こちらを値踏みしている者。共通しているのは、全員がこちらを見ていることだった。
その中に、ガルドはいなかった。
俺は玉座に座った。
場を見回した。全員の顔を、順番に確認した。誰が古参派で、誰が中立で、誰がどちらにも決めていないか。三秒で十分だった。
古参派の一人が前に出た。
副将格の男だった。ガルドの下にいる人間だった。名はバルタと言った。体格が大きく、声も大きかった。古参派の中でも強硬な立場を取ることで知られていた。
「陛下に申し上げます」
声が謁見の間に響いた。
「今次の交渉路線について、宮廷の名において、正式な疑義を申し立てます」
俺は黙って聞いた。
「魔族は力で立つ者です。人間との交渉は、我らの力を示した後に行うものであり、力を示す前に行うものではない。陛下の現在の方針は、この原則を逸脱しています」
場の空気が変わった。
賛同の気配が、古参派の方向から来た。中立の者たちは動かなかった。
「さらに申し上げます。人間側との接触において、陛下は内部者を失いました。交渉ルートは遮断されました。これは失敗です。陛下の判断の誤りです。魔王としての統治能力に疑問を呈します」
静寂が落ちた。
俺は少し間を置いた。
魔力を使えば、この場は収まる。圧力をかければ、バルタは黙る。古参派も退く。それは分かっていた。しかしそれをすれば、今日の出来事が「魔王が力で弾劾を封じた」という記録になる。その記録が、次の弾劾の根拠になる。
力で黙らせない。言葉で押し返す。
そう決めた理由を、もう一度確認した。
「バルタ」
俺は静かに言った。
バルタが止まった。
「交渉ルートが遮断されたことは、事実だ」
場が動いた。認めると思っていなかった者たちが、少しだけ動揺した。
「人間側との接触において、判断の誤りがあった。それも事実だ」
さらに動いた。
「しかし、交渉そのものが誤りだったとは言わない」
俺は場を見回した。
「魔族は力で立つ。それは正しい。しかし力だけで立ち続けることができるのは、力が続く間だけだ。力には限りがある。俺の力にも、この城の力にも、限りがある」
バルタが口を開こうとした。
「聞け」
一言だけ言った。
バルタが止まった。
「交渉は、魔族領が立て直す時間を作るためのものだった。使わずに済む状況を作ることが、最も力を活かす方法だ」
場が静かになった。
「失敗した。認める。しかし失敗の理由は、交渉が間違いだったからではない。交渉の進め方に問題があった。それは修正できる。修正している」
言葉は出ていた。しかし、修正の具体的な手は、まだどこにもなかった。
俺はバルタを見た。
「お前たちが求めているのは、交渉の撤回か。それとも魔族の生存か」
バルタが少し揺れた。
「どちらかを選べと言っているのではない。交渉を撤回して力で押し進めた場合に、何が起きるかを考えろということだ。人間側は今、強硬派が台頭している。我らが力で動けば、人間側の強硬派に最も都合の良い状況が生まれる。それで良いのか」
沈黙が続いた。
古参派の中で、動揺が広がっているのが分かった。全員ではない。しかし一部は揺れていた。
バルタが再び口を開いた。
「陛下の言葉は理解します。しかし、交渉ルートを失った今、具体的にどう動くのか。それが見えない」
「見えなくて当然だ。まだ動いていないから」
俺は答えた。
「今はまだ、状況を整理している段階だ。次の手を動かす前に、今の状況を正確に把握する必要がある。その時間を、お前たちは奪おうとしている」
バルタが黙った。
俺は場全体を見渡した。
「弾劾を続けるなら続けろ。ただし、この場で魔王を弾劾した結果、宮廷が分裂した場合に何が起きるかも考えろ。人間側は今、我らの内部を見ている。今この瞬間も、見ている」
静寂が落ちた。
長い静寂だった。
やがてバルタが、一歩後退した。
「……本日の議題は、継続審議とします」
それだけ言った。
古参派の他の者たちも、それに倣った。
謁見は終わった。
廊下に出た瞬間、足が重かった。
疲れていた。言葉を使い続けることの疲労が、思った以上に大きかった。魔力を使った方が、体への負荷は少なかったかもしれなかった。いや、それは別の話だった。言葉を使うのは、別の部分を消耗する。
ダナが隣に来た。
「収めた」
「辛うじてだ」
「十分だ」
俺は少しだけ止まった。
「ガルドはいなかった」
「知っている」
「なぜいなかった」
ダナは少し間を置いた。
「分からない。ただ、今日の弾劾を止めたのも、ガルドだという情報がある」
「止めた」
「弾劾の規模を縮小させた。本来は、もっと大規模な公開弾劾になるはずだった。それをバルタ主導の議題提出に留めたのは、ガルドが動いたからだという話だ」
俺は少し考えた。
ガルドが弾劾に加わらなかった。さらに、弾劾の規模を縮小させた。それが何を意味するのか、まだ分からなかった。
話3の「子どもには手を出すな」という言葉が、頭に残っていた。あの老将は、あの一線をまだ見ている。
「引き続き監視しろ」
「分かった」
ダナは離れた。
部屋に戻った。
椅子に座った。
今日起きたことを整理した。
弾劾は収めた。辛うじてだが、言葉で押し返した。古参派の全員が納得したわけではない。離反は止まっていない。しかし今日の場では、それ以上進まなかった。
それだけだった。
勝利ではなかった。消耗だった。
右手を確認した。指を動かす。問題ない。もう一度。今日は誤差が少なかった。言葉を使い続けることで、別の回路が動いていたのかもしれなかった。あるいは、誤差を感じる余裕がなかっただけかもしれなかった。どちらか分からなかった。
ミラのことを考えた。
今日、謁見の間で起きたことは、ミラの投獄と無関係ではなかった。交渉ルートが遮断されたことが、古参派に勢いを与えた。古参派に勢いを与えたのは、俺の判断だった。
その連鎖を、また確認した。
確認して、どうするかは、まだ出なかった。
夜、リオから短い書状が届いた。
「古参派の動きが変わりました。ガルドが、宮廷外で独自の会合を開き始めています。宮廷の内部とは切り離した動きです」
読んでから、しばらく考えた。
ガルドが宮廷の外で動いている。宮廷の弾劾には加わらない。しかし何かを進めている。
次に来るのは、弾劾ではないかもしれなかった。
書状を火にくべた。
炎が消えるのを見ていた。
今日の言葉を、もう一度頭の中で辿った。「交渉を撤回して力で押し進めた場合に、何が起きるかを考えろ」と俺は言った。
それはバルタに言った言葉だったが、自分にも当てはまった。
ガルドが力で動き始めたら、何が起きるか。
答えは出なかった。
出ないまま、夜が続いた。




