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第19話:槍を捨てる
「離せ! 私の……私の槍を返せ!」
胤舜は、もはや槍術の形を捨て泥の中に埋まった十文字槍を必死に引き抜こうと格闘していた。だが、引けば引くほどムサシの泥は胤舜の腕まで這い上がり、彼を武士から泥まみれの凡夫へと引きずり込んでいく。
「胤舜さん、もう諦めなよ。その槍、ムサシが気に入っちゃったみたいだからさ!」
又八の呑気な声が響く。胤舜はその瞬間、ハッとした。自分は槍を守ろうとしているのか、それとも槍という形に守られようとしているのか。
「……私は、この一本の棒に、これほどまでに執着していたというのか」
泥の巨人は、ただそこに在るだけだ。殺意も憎しみもなく、ただ自分を突き刺した槍を受け入れているに過ぎない。胤舜は指先まで泥に染まりながら、ふっと力を抜いた。
「……不殺生……殺せぬものを殺そうとした私は無意味だ」
胤舜が槍の柄から手を離した瞬間、ムサシはバランスを崩し十文字槍を胸に突き立てたままドシンと尻餅をついた。道場の床が大きく揺れる。
「ああっ、ムサシ! お前、お寺の床を壊すんじゃないよ!」
又八が駆け寄るが胤舜は泥まみれのまま、晴れやかな顔で座り込んだ。彼を縛っていた最強という名の鎖が泥の中に溶けて消えた瞬間であった。




