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2:偶然の連鎖



 翌日の朝、俺は頬の腫れを会社に持っていきました。


 「米麦くん、その顔どうしたの」

 「ちょっと」

 「ちょっとで済む腫れじゃないよそれ」


 田中さんが心配そうに覗き込んできました。田中さんは俺の後ろに立たないように気をつけている人ですが、正面からは普通に接してくれます。ありがたい存在です。


 「心配しなくても、大丈夫です」

 「喧嘩したの?」

 「違います」

 「米麦くんが喧嘩するとこ、ちょっと想像できないけど」


 絶対にできません、と俺は思いました。昨夜のことを振り返っても、喧嘩をした記憶というより、殴られた記憶と逃げた記憶しかありませんでした。

 自分から殴り返すなんて、考える前に体が逃げていましたから。

 「お大事に」と言って田中さんは去っていきました。俺はパソコンを立ち上げながら、昨夜のことを整理しようとしました。

 高木原ぴな、という女性のこと。

 そして、あの老人のこと。

 ケツが、プリッとしていたこと。

 俺はため息をついて、仕事を始めることにしました。


 その日の昼休み、俺は一人でコンビニに行きました。

 会社の近くのコンビニで、サンドイッチと緑茶を買って、外のベンチで食べるのが俺の昼の習慣です。会社の食堂は人が多くて、どうしても誰かにぶつかったり、トレーを倒したりしてしまうので。

 ベンチに座って、サンドイッチの袋を開けたところで……。


 「よねさん」


 声がして振り返ると、昨夜の老人がいました。

よれよれのジャンパーに、コンビニ袋。袋の中にどら焼きが見えました。


 「なんで」

 「なんで、とは?」

 「なんでここに」

 「コンビニ来たんや」


 老人はそう言って、俺の隣に座りました。昨夜と同じ距離感でした。とても近かったです。


 「偶然ですか」

 「そや」


 本当だろうか、と俺は思いました。しかし追及する理由もありませんでした。都内のコンビニなど、誰でも来ます。


 「顔、やられとるな」

 「ええ」


 老人はどら焼きを袋から出して、開けて、ひと口食べました。咀嚼しながら、俺の頬をじっと見ていました。


 「痛かったやろ」

 「まあ」

 「でもうまく流しとったで。完全には防げてへんかったけど、あれがなかったら倍は腫れとった」

 「……はあ」

 「無意識にやっとるんやろ、自分では」


 俺は老人を見ました。相変わらずにこにこしていました。


 「何が言いたいんですか」

 「弟子にならんか、言うてる」

 「昨日も断りました」

 「そやな」


 老人はどら焼きをもうひと口食べました。


 「なんで断るんや」

 「なんでって」


 俺はサンドイッチを持ったまま言いました。


 「俺、武道とか全然興味ないですし」

 「興味の話はしとらん」

 「じゃあ何の話ですか」

 「才能の話や!」


 老人は強く言いました。服についたどら焼きのカスを、指でつまみながら。


 「あんちゃんは才能がある。それだけや」


 俺はしばらく黙っていました。

 才能、という言葉を、俺に向けて言う人間が今まで存在しなかったわけではありません。しかしそれはいつも、俺の体が何かを壊した後に、「才能あるよ、破壊の」という形で言われてきました。


 「才能があるとは思えないですけど」

 「思えんでええ。わいが思うとるから」

 「……」

 「考えといてや」


 老人はどら焼きを食べ終えて、ごちそうさん、と言いました。そして立ち上がって——。

 プリッ。とお尻を突き出すと、何事もなかったように、ふらふらと歩き去っていきました。

 俺は手元のサンドイッチを頬張りました。

 全然味がしませんでした。


 問題は、それで終わらなかったことです。

 翌日の昼も、老人はいました。

 場所が違いました。今度は会社から少し離れた公園のベンチでした。俺が気分転換に足を延ばした先に、老人はどら焼きを持って座っていました。


 「今日も偶然ですか」

 「そや」

 「本当に?」

 「本当や。なんや疑うんか?」


 俺には確かめる術がありませんでした。

 その翌日も、老人はいました。

 今度は駅の改札前でした。


 「これも偶然ですか」

 「そや」

 「三日連続で?」

 「縁があるんやろな、よねさんとわいは」


 俺はため息をつきました。

 老人は今日もどら焼きを持っていました。コンビニのどら焼きです。毎日食べているのでしょうか。体に悪くないだろうか、と俺は他人事ながら心配しました。


 「あの、お名前聞いてもいいですか」

 「真壁や。真壁玄十郎」

 「真壁さん」

 「玄十郎でええ」

 「……真壁さん、俺、本当に弟子になるつもりはないので」

 「そか」

 「はい」

 「まあ、ゆっくり考えてや」

 「え?いや……」


 老人——真壁さんは、にこにこしながら言いました。断られたことをまるで気にしていない様子でした。

 この人は大丈夫なのだろうか、と俺はまた思いました。毎日コンビニでどら焼きを買って、見知らぬ若者に弟子入りを勧めて回る老人。家族はいるのだろうか。心配してくれる人は。


 「真壁さん、ご家族は」

 「おらんよ」

 「……そうですか」

 「気ぃ遣わんでええ。わいはこれが好きでやっとるんやから」

 「これ、というのは」

 「後継者探し」


 真壁さんはそう言って、お尻をプリッとさせると去っていきました。

 後継者探し。

 俺は駅の人混みの中に消えていく老人の背中を見ながら、複雑な気持ちになっていました。

 なんというか、この人の人生は、孤独なのではないか、と。


 高木原ぴなから連絡が来たのは、その週の金曜日でした。

 あの夜、駅で別れる前に連絡先を交換していたのです。「お礼がしたいので」と彼女が言い、俺が断りきれなかった形でした。

 メッセージには「先日は本当にありがとうございました。お礼がしたいのですが、ご都合はいかがでしょうか」と書いてありました。丁寧な文面でした。

 俺はしばらく画面を見ていました。

 お礼、というのは断るのが正しいのか、受け取るのが正しいのか。しかし断ったら失礼かもしれない。でも受け取ったら何か下心があるみたいに思われるかもしれない。

 考えているうちに、俺の指がメッセージを打っていました。


 「ありがとうございます。でもお気遣いなく」


 送った後で、これでよかったのかどうか、しばらく考えていました。

 数分後、返信が来ました。


 「そう言われると思いました。でも私が気になるので、少しだけ付き合ってもらえませんか」


 俺はまたしばらく画面を見ていました。

 小動物系に見えて、意外と押してくる人だな、と思いました。

 「わかりました」と俺は打ちました。

 今度は自分の意志で、打ちました。


 待ち合わせは土曜日の昼、駅前のカフェでした。

 俺は五分前に着いて、入り口の前で待っていました。

 高木原さんは三分前に現れました。紺色のコートに、白いマフラー。この前より少し明るい雰囲気でした。俺を見つけて、ぱっと表情が和らぎました。


 「米麦さん、怪我は……?」

 「もう大丈夫です」

 「よかった。本当に、あの時は」

 「大したことしてないですよ」

 「大したことないって……殴られてたじゃないですか」


 高木原さんは困ったような顔をしました。


 「俺が勝手に動いただけなので」

 「勝手に、ですか」

 「体が先に動いてしまうんです、俺」


 高木原さんはしばらく俺を見ていました。


 「米麦さんって、面白い人ですね」

 「よく言われます」

 「あ!いい意味で言ってますよ?」

 「……」


 カフェに入りながら、高木原さんはそう言いました。

 俺は返事ができませんでした。体が先に動いてしまうことを「いい意味」と言われたのが、初めてだったからかもしれませんでした。

 コーヒーを頼んで、向かい合って座りました。


 「米麦さんって、普段何してる人なんですか」

 「会社員やってます」

 「どんな?」

 「商社です。営業を」

 「向いてそう、かも」

 「全然向いてないです」

 「え、なんで」


 俺は少し考えました。田中さんのお茶をひっくり返した話と、USBを抜いた話と、スプリンクラーの話を、どこまでするべきか。


 「体が先に動くので、いろいろと」

 「あ、さっきも言ってましたね」

 「はい。社内でハザードマップと呼ばれています」


 高木原さんは一瞬止まって、それからふっと笑いました。声を出して笑うのを、少し堪えているような笑い方でした。


 「ごめんなさい、笑うとこじゃないですよね」

 「いいですよ」

 「でも大変じゃないですか」


 俺は思いました。

 大変かどうかで言えば、大変でした。入社して六年間、ずっと大変でした。体が思い通りに動かないまま、社会人をやっていました。まあそれより前の学生時代も大概でしたが。


 「……もう、慣れました」


 正直には言えませんでしたが、嘘でもありませんでした。

 高木原さんはコーヒーカップを両手で包みながら、俺を見ていました。


 「私、あの時、なんで米麦さんに声をかけたのか自分でもわからなかったんです」

 「そうですか」

 「でも、なんか、放っておけなさそうな人だなって思って」


 俺は高木原さんを見ました。


 「放っておけなさそう?」

 「あ、変な意味じゃなくて。なんか、真剣そうで。その場にちゃんといる感じがして」

 「……」

 「うまく言えないんですけど」


 俺にもうまく受け取れませんでしたが、悪い気はしませんでした。

 窓の外で、風が木の葉を揺らしていました。

 土曜日の昼の、静かなカフェでした。


 その帰り道、駅に向かって歩いていたら、真壁さんがいました。

 商店街の入り口に、どら焼きを持って立っていました。


 「よねさん」

 「……真壁さん」

 「偶然やな」

 「毎回そう言いますね」


 真壁さんは俺の隣に並んで、一緒に歩き始めました。なぜ一緒に歩いているのか、俺にはわかりませんでしたが、拒絶する理由も思い浮かびませんでした。


 「今日は誰かとおったんか」

 「知り合いです」

 「ほう」


 真壁さんはどら焼きをひと口食べながら、にこにこしていました。


 「ええ顔しとったで、よねさん」

 「見てたんですか」

 「偶然目に入っただけや」


 俺は前を向いたまま言いました。


 「真壁さん、本当にどこにでも現れますね」

 「縁や、縁」

 「俺は弟子になりませんよ」

 「そか」

 「はい」

 「まあ、ゆっくりでええ」


 真壁さんはそう言って、商店街の途中で曲がり角に差し掛かったところで立ち止まりました。


 「ほな、わいはこっちや」

 「そうですか」

 「またな、よねさん」

 「……また、ですか」

 「縁があれば」


 真壁さんはにこにこしながら、曲がり角の向こうに消えていきました。

 プリッ、といつもの動作が、角を曲がる直前に見えました。

 俺はその場に立ち止まって、しばらくそちらを眺めていました。

 この老人は何者なのだろう、と思いました。

 毎日どら焼きを食べて、見知らぬ若者に弟子入りを勧めて、プリッとして去っていく。家族もおらず、一人で後継者を探し続けている。

 可哀想な人なのかもしれない、と俺は思っていました。

 ただ。

 ほんの少しだけ、引っかかるものが、また残っていました。

 この老人は本当に、ただの老人なのだろうか、と。

 その答えが出るのは、もう少し先のことでした。


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