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1:夜の駅



 俺の名前は米麦粒よねむぎ つぶ、二十八歳です。


 社会人六年目。所属は都内の中堅商社、営業二課。趣味なし。特技も特になし。強いて言うなら、体が思考より前に、動くことです。

 これを特技と呼べるかどうかは、かなり怪しいところなのですが。

 その日の午前十一時、俺はまたやらかしていました。

 会議室の空気が、ぴたりと凍りついていました。

 テーブルの上には茶色い染みが広がっていて、課長の白いワイシャツにも同じ色がついていて、床にはひっくり返ったお盆と、無惨に転がるいくつかの湯飲みがありました。お茶係の田中さんは、放心したように立ち尽くしていました。俺の肩にも温かい液体の感触が残っていましたが、それどころではありませんでした。


 「コラァ!米麦ッ!何度言えばわかるんだ!例の件の数字はどうなってるんだ!」


 課長の怒鳴り声が会議室に響いた瞬間のことを、俺は今でも鮮明に覚えています。


 瞬間。体が、動いていました。


 頭で何かを考えるより先に、足が一歩、後ろへ引いていました。謝罪の言葉を口に出そうとしながら、背中がぐっと下がって、腰が折れて、そのまま綺麗に体重が後方へ移動して——。


 「あっ」


 俺の背中が、廊下から入ってきたばかりの田中さんのお盆を、完璧なタイミングで直撃していました。

 物理とは残酷なものです。

 お盆の上にあった湯飲みは放物線を描き、お茶は宙を舞い、そして会議室のあらゆるものに降り注ぎました。課長のワイシャツに。資料に。テーブルに。出席者の何人かの顔に。

 静寂。


 「……米麦」


 課長の声は、静かでした。静かな方が怖いのです、あの人は。


 「はい」

 「お前のことを、ハザードマップと呼ぶのは誰だ」

 「……全員だと思います」

 「そうだ。全員だ。なぜだと思う」


 俺には答えられませんでした。いや、答えはわかっているのです。ただ口にするのが辛かっただけで。

 ハザードマップ、という呼び名がついたのは入社三年目の頃だと聞いています。

 俺が通った後には必ず何かが起きる、というのが由来らしいです。

 棚が倒れる。書類が散乱する。誰かがコーヒーをこぼす。パソコンがフリーズする。ドアノブが外れる。なぜかスプリンクラーが作動する。これについては今でも原因が不明です。


 悪意はない。ただ体が、先に動いてしまうのです。

 二ヶ月前にも似たようなことがありました。

 締め切り前日の深夜、会社に残って資料を作っていた時のことです。突然、画面がフリーズしました。マウスが効かない。キーボードも反応しない。保存していない三時間分のデータが、そこにありました。

 頭では「落ち着いて対処しろ」と考えていました。

 しかし俺の手は、既にUSBメモリを引き抜いていました。

 画面が暗転しました。

 三時間分のデータは、消えました。

 その夜は泣きました。二十八歳の社会人が、会社のトイレで泣きました。俺の体は、本当に俺の言うことを聞かないのです。


 そんな憂鬱な日々の果ての、とある木曜日の夜でした。

 残業を終えて最寄り駅のホームに立っていた俺は、疲弊していました。体が、というよりは主に心がです。今日だけで始末書を二枚書きましたし、課長には三十五回怒鳴られました。田中さんには「米麦さんの後ろには絶対立たないようにしてるんですよ」と冷めた目で呟かれたし。


 電車を待ちながら、俺はぼんやりとホームの端の方を眺めていました。

 ふと、視界に入りました。

 小柄な女性でした。紺色のコートに、黒いパンプス。髪を緩くまとめて、大きなトートバッグを肩にかけていました。目が大きくて、なんというか、小動物みたいな雰囲気の人でした。

 そしてその女性の腕を、酔っ払いの男が掴んでいました。


 「いいじゃないかあ、ちょっとだけさあ」


 男は呂律の怪しい声でそう言いながら、女性の体を引き寄せようとしていました。女性は必死に腕を引っ張って、周囲に視線を泳がせていました。

 助けを求める目でした。


「……!」


 その目が、俺を捉えました。

 俺たちの間には五メートルほどの距離がありました。ホームには他にも人がいましたが、みんな見て見ぬふりをしていました。よくある夜の光景です。

 女性の目が、俺に何かを訴えていました。

 次の瞬間、足が動いていました。


 「あの、すみません」


 気づいたら俺は男の横に立っていました。自分でもいつ歩き出したのか覚えてません。


 「なんだぁテメェ?関係ねえだろ」


 男がこちらを向きました。俺より頭一つ分大きな男でした。酒臭い息が顔にかかりました。


 「知り合いなんで」

 「あ?どこの知り合いだよ」

 「会社の、同僚です」


 嘘でした。完全な嘘でした。しかし体が動いていたので、口も動いていました。


 「嘘つくんじゃねえよ」


 男の拳が、来ました。

 俺の頬を、確かに捉えていました。

 痛かったです。かなり痛かったです。しかし、その衝撃が体に伝わった瞬間、俺の体はもう動いていました。

 殴られた際の、のけぞりと逃げの動作が、同時に起きていました。

 後で考えると不思議なのですが、その瞬間の俺の体はまず殴られた方向と逆に重心を流して衝撃を逃し、次の瞬間には女性の手を取って、人混みをすり抜けて、ホームを半分ほど移動していました。

 自分でも驚くほど、体が勝手に動いていたのです。


 「——っ、は」


 気づいたら俺は呼吸をしていました。女性が隣にいました。男は遠くで怒鳴っていましたが、追ってくる気配はありませんでした。


 「大丈夫ですか」


 俺が言うと、女性は目を丸くしたまま、こくりと頷きました。


 「……ありがとうございます」


 小さな声でした。


 「いえ気にしないでください」

 「怪我、してます……」


 女性が震える声で、俺の頬を指さしました。触れてみると、少し腫れていました。


 「あー、大丈夫です。それじゃ俺はこれで——」

 「高木原たかぎばらです」

 「え?」

 「高木原ぴな、といいます。さっきは本当に助かりました」


 高木原ぴな、と名乗った女性は、大きな目でまっすぐ俺を見ていました。小動物みたいだと思っていたのですが、こうして正面から見ると、意外にも芯のある目をしていました。


 「米麦です。米麦粒」

 「よねむぎ……つぶ、さん」

 「はい」


 少しの間がありました。


 「面白いお名前ですね」

 「よく言われます」


 高木原さんと別れた後、俺はホームのベンチに座っていました。

 頬が痛かったです。人生で初めて殴られました。幸いなことにウチの会社では、殴る蹴るのパワハラは御法度だったので。


 「ほう」


 声がしたので振り向くと、老人がいました。

 八十に近いかもしれない、七十を過ぎているかもしれない、とにかくかなりの高齢の男性でした。白髪を短く刈り込んで、よれよれのジャンパーを着て、コンビニの袋をぶら下げていました。目が細くて、にこにこしているのか眠いのか、よくわからない表情をしていました。何よりも特徴的なのは、ジャンパー越しにでも分かる、大きな大きなお尻。


 「どうしましたか?」

 「いや、ほう、と思うてな」


 老人はそう言いながら、俺の隣にどさりと腰を下ろしました。距離感が近かったです。


 「見とったで、さっきの」

 「……そうですか」

 「ケツから動いとった」


 俺は老人を見ました。


 「はい?」

 「殴られた瞬間な、普通は顔か肩から反応するんや。でもあんちゃんは違った。ケツから動いとった。腰の底から、ずるっとな。衝撃をそっちに流してから、次の動作に入っとった」


 老人は楽しそうに言いながら、コンビニ袋からどら焼きを取り出して、食べ始めました。


 「……何が言いたいんですか?」

 「ええもん持っとるなあ、思うてな」


 老人はどら焼きをひと口齧りました。


 「あんちゃん、名前は」

 「米麦です」

 「よねさんか、ええ名前や。なぁ、よねさん!わいの弟子にならんか」


 俺は老人を見ました。老人はどら焼きを食べながら、にこにこしていました。

 弟子?

 俺は少し考えました。この老人が何者なのかはわかりませんでした。突然隣に座ってきて、突然弟子にならないかと言ってくる老人の正体など、推測する材料が何もありませんでした。

 ただ一つ思ったことがあったとすれば。

 この人、大丈夫だろうか、ということでした。

 ボケているのかもしれない、と俺は思いました。家族の方が心配しているのではないか、とも。


 「あの、お家はわかりますか」

 「わかるわ、ぼけとらんわ」

 「そうですか」

 「で、弟子になるんか?」

 「……結構です」

 「そか」


 老人はどら焼きの最後のひと口を食べて、ごちそうさん、と言いました。そしてゆっくりと立ち上がって、コンビニ袋を持ち直して——。

 プリッ。


 「……」


 老人は立ち上がりざまに、腰をひと振りさせて、その大きなお尻を一振りしました。

 それを最後に、老人はふらふらと歩き去って行きました。

 俺はしばらく、その後ろ姿を眺めていました。

 大丈夫だろうか、という気持ちは変わりませんでした。

 ただ、何か引っかかるものが、俺の中に残っていました。

 それが何なのかは、この時の俺にはまだ、わかりませんでした。


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