*44 未来と将来と現在
握られた手首が痛い。
歩みの進まない私を半ば引きずるように足早に大学構内を進む彼の背中は、なんだか遠く感じられた。
慣れないパンプスに足元が何度ももつれそうになる。
タイミングよく通りかかったタクシーを呼び止め、転がるように押し込まれた。
「ねぇ、ちょっと」
「後で聞くから」
私の抗議の声も聞かないふりをして運転手に告げた行き先は、自宅マンションの住所。
何かを言うだけ無駄だろうと膝に視線を落としていれば、指を絡めるように握られた。
盗み見見た横顔は、何を考えているのか唇を真一文字に結んでいた。
重苦しい音を立てて開いたドアをくぐれば、私の世界は彼に支配権を奪われる。
その腕の中に、壁際に追い詰められる。
「……ずっと閉じ込めていられたらいいのに」
吐き出すように彼が呟いたのは、散々空気を奪われて自分で立っていられなくなった頃。
金魚のように口ではくはくと息をすれば、彼の口許が歪んだ。
ずるずると重力に任せて崩れ落ちようとする背中をやっと支えているのは、ごつごつとしたうちっぱなしの冷たいコンクリート。
室内だというのに、まだ靴すら脱いでいない。
「……閉じ込めてくれても構わないのに」
「そんなこと、出来ると思う?」
乾いた笑い声を立てて彼は笑う。
そして、私のコートのボタンに手を伸ばす。
「それが出来るなら、こんなに苦しまないさ」
性急にコートをはだけさせ、薄手のニットの中にその手が潜り込む。
すっかり冷えて、少しかさついた指先が肌に触れた。
触れた場所から粟立つように、背中を伝ってざわつく。
「出来ない訳じゃ、ないでしょ」
「……俺と結婚でもする? それとも?」
彼が苦しそうに喘ぐように。
自嘲するように。
あぁ、でもそれじゃ。
二人とも苦しいだけじゃないか。
「でも、それもいいかもね」
今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。
彼は彼で、必要以上に縛り付けることを恐れていて、でも喪うことも恐れていて、私は私で、彼に捨てられることを怖れているくせに。
その癖、互いを試すような真似をする。
いつも互いが互いを振り回すようなことになる。
唇が触れるか触れないかの距離が、もどかしい。
そんな距離で、低めの声が囁く。
「……結婚、しようか?」
「歩がそうしたいなら」
全く、狡い返答だ。
市田がそれを望まないのは、判りきっている。
「……狡いな、君は」
「どっちが?」
背中を辿っていた指が、そっと離されていく。
「出来ないのは、知ってるだろ」
「知ってる。でも、狡いのは歩もでしょ?」
彼曰く、私の両親の手前、学生結婚なんて真似は出来ないのだそうだ。
そう理由を付けてはいるけど、その実、彼にそれだけの覚悟がないのだということもわかっている。
私は、と言えば。
「あぁ、もう。どうしたら、君がふらふらしなくなるんだろう?」
「ふらふらしてるつもりはないんだけどな」
「その自覚のなさがヤバい」
未だに、彼との未来のビジョンが描けない。
彼と一緒にいられる将来が上手く描けない。
彼がいなくなる頃に、私は一人でも立っていられるだろうか。




