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*42 間

 樋田さんの唇は、あたしの呼吸のすべてを奪うように貪る。


息が、出来ない。


樋田さんの胸を力いっぱいに押して隙を作り、その腕の中から逃げる。


「な、なんで!?」


 散々弄ばれた唇を服の袖で拭いながら、後ずさる。


が、それすら長机によって阻まれる。


「お前が好きだ」


 そう言った樋田さんは今までに見たことがないほど、悲痛な表情で。


「……え」


「お前が、お前達が研究室に入って来た頃から、ずっと。気づかなかった?」


 良い先輩、面白い先輩。


小さな男の子をそのまま大人にしたような。


いたずら好きで、寒いギャグばっか言っては突っ込まれて。


気が付くと、優し気に細めた目で眺めていたりする。


あたしにとっては優しくて楽しい、時々は頼れる先輩で兄のような存在だった。


「気付かなかっただろ? まぁ、お前と市田の気持ちは解ってたしな」


 一歩、また一歩と樋田さんが近づく。


あたしは蛇に睨まれた蛙のように、逃げることさえ叶わない。


いや、逃げるなんて出来なかった。


あの樋田さんには、似つかわしくない悲痛な顔を見てしまったから。


今だって、苦し気なままだ。


「だけど、糸屋が来て。アイツがアイツなりにアピールするようになって。正直、羨んだし疎ましくも思った。俺にはそこまでは考えられなかったからな」


 樋田さんの大きな手が、あたしの(おとがい)を捕らえる。


決して力ずくではなく、壊れ物を扱うように。


その、添えられた指は微かに震えていた。


「……なぁ」


 ため息をつくように、恋人に囁くように、耳元で彼は言う。


「……もし、……あぁ、そんなこと言っても何の意味もないか」


 言い掛けて、口をつぐむ。


そう、確かに仮定の話に意味などないのかもしれない。


大体、何を聞きたいのかも解る。


「あたし、樋田さんのことは正直、良い先輩かお兄ちゃんみたいに思ってた。だから、……ごめん。ごめんなさい」


「先輩か兄貴か。……まぁ、そうだよな。そういう風にしてたつもりだし」


 はは、参ったな。


そう、苦笑いする樋田さん。


当たり前だが、かける言葉もなくて。


あぁ、振るってこういうことなのか。


「……ごめん」


 頭を抱えるようにしゃがみこんだ彼に、あたしはそこを去るきっかけすら失くしてしまって。


だから、ノックもなく扉を開けた人間に感謝したいくらいだった。


「あれ、佐伯いるし」


「樋田君もいるし。何やってたの?」


 市田と蓮見先生がいた。


そりゃ、そうか。


呼んだのにこないあたしを探しに来た蓮見先生と、それに居合わせた市田。


それに驚いて固まるあたしに、頭を抱える樋田さん。


一体、なんなんだ、これは?


あたしが頭を抱えたい。(出来るなら今すぐに)


「……あ~」


 樋田さんがガシガシと頭をかきむしりながら立ち上がる。


「俺が、佐伯に相談事してたんすよ。ちょっと長引いちゃって。すいません、先生」


「あぁ、そう。良いの? 相談は」


「えぇ、まぁ。一応は」


「そっか。なら、佐伯、良いかい?」


「はい」


 『じゃ、また後で』と、蓮見先生が研究室を出ていく。


あたしも後を追うために、手荷物をかき集める。


「佐伯。悪かったな」


「……いいえ、大丈夫です。樋田さん」


 何と答えれば良いのか。


逡巡した為に、返事をするまでに不自然な間が空いてしまう。


市田に何があったのか疑問に思われてしまうのではないか。


「佐伯」


 当の市田と目が合う。


……今は目を合わせることが出来ない。


「ごめん。後で」


 市田の脇をすり抜けて、逃げるようにそこを後にした。

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