*40 些末な事象
日も暮れて、肌寒いを通り越し、肌に刺さるような冷たい風に変わる。
伸びかけて邪魔になりつつある巻いた毛先が、風に煽られて揺れる。
「──ごめん」
対峙する彼が、謝る。
──何を。
「言わなければ良かった」
後悔するくらいなら、言わなければ良い。
大体、あたしはまだ、何も言ってはいない。
不意に、視界が遮られる。
市田のものとは違う香水の香りがする。
決して、嫌いではない。
「……ごめん。最後にするから」
糸屋くんの大きな手が、あたしの頭を引き寄せる。
体を預けるように、もたれ掛かる格好になる。
丁度、抱き合うように。
「最後?」
あたしが抵抗しないのを見てとれると、糸屋くんの緊張が少し解けるのがわかった。
引き寄せた手で、梳くように髪を撫でる。
「佐伯さんを好きでいるのをやめる。未練がましく、女々しいのはもうやめるよ」
糸屋くんの腕の中に収まったまま、彼の宣言を聞く。
耳からではなく、直接響いてくる声に混じる心臓の音。
「そっか」
彼に聞こえるだけの声で答える。
他に何を言えるのか。
「だから、今まで、好きでいさせてくれて、ありがとう。多分、まだしばらくは好きでいるんだろうけど、」
──いつかは、忘れる。
忙しい日々に紛れ、思い出に埋もれて行くように。
いつかは、『あんなこともあったね』と言えるくらいに。
「まぁ、まだしばらくは研究室で顔を合わせるんだけどさ」
ちょっと自嘲混じりに。
糸屋くんは4回生で、卒業まではあと半年もない。
「……あぁ、佐伯さんが市田さんから俺に乗り換えてくれるってんなら、喜んでお受けさせてもらうけど?」
「……糸屋くんってば」
しっかり冗談も言う彼の顔を見上げる。
おどけた様な口調とは裏腹な彼の目に。
その目に、心臓を鷲掴みにされる。
「そんな目で、見ないでよ」
困った様に笑う。
そんな目って?
糸屋くんにはあたしがどんな風に映っている?
糸屋くんの顔が近付き、まぶたにその唇が触れる。
反射的に眼を閉じる。
それを肯定と受け取ったのか、大きな手があたしのあごに触れ、唇にもキスを落とす。
彼の思うままに唇を貪られ、あたしはそれに屈伏を強いられる。
「……んっ」
せめてもの抵抗に彼の胸を押すと、濡れた音を立てて唇が離れた。
「……っごめん」
抵抗とも取れないほどの抵抗に、我にかえって狼狽える。
「……あ……」
何か言葉を返そうと口を開けば、彼は既に踵を返していて。
ドアを閉めるもの凄い音だけがその場に残った。
ぎしり。
糸屋くんのすぐ後に戻るのは気が引けて、フェンスに寄りかかる。
顔を頭に血が昇りそうなくらい上げて、仰け反るようにして空を見上げる。
見えはじめた星を見上げる。
彼はこれで少しはすっきりしただろうか。
あたしはすっきりするどころか、もやもやするんだけど。
後味は、ひどく悪い。
色々と、考えてしまいそう。
まぁ、それは良いか。
──明日から、どんな顔で研究室に行けば良いというのか。
それがさしあたっての問題だ。




