*39 夜の帳
かつん。
人気のない廊下。
壁を一枚隔てて聞こえる会話。
ちょっと早足の糸屋君の後を追うあたしの靴の踵が鳴る。
振り返りもせず、歩幅を緩めもしない彼の後ろを着いていくのがやっとで。
あぁ、なんでこんなときに限ってこんなパンプスなんて履いてきちゃったんだろう。
朝の自分の選択が恨めしい。
大きなクルミボタンが特徴的なグレーのスウェードのパンプス。
いつも履いているようなヒールじゃなくて、ウェッジソールの歩きやすそうな。
ショッピングモールの靴屋さんで市田が選んでくれた。
シンデレラにガラスの靴を履かせるように、うやうやしく跪いて。
足首に触れた指先は冷たく。
『やっぱり、似合う』
そう言っていたずらっぽく、笑う。
屋上へのドアが、糸屋君の手によって開けられる。
屋上へ足を踏み入れる刹那、初めて振り返った彼の表情が。
苦々しく、歪んだ。
ぎし、と彼が背を預けたフェンスが鳴る。
そのすぐ側に、あたしも立つ。
目に鮮やかなグラデーションに染まった空と、それを映し影を伸ばす街並みが拡がる。
この時間は、嫌いじゃぁ、ない。
「それで? 話って?」
中々、口を開かない彼に投げ掛ける。
薄々、話の内容は解っているというのに、こんな物言いしか出来ない自分が嫌になる。
だって、彼には、何一つ答えてやれないから。
「……俺が呼び出したんだけどね、うん。いざ、呼び出しても、なんて言えば良いのかね、うん」
苦笑いをする。
その表情が、いつも以上に歳相応に、いつもよりも自信なさげに見せる。
「……あのさ、俺、佐伯さんが好きだよ」
「うん、知ってる」
「うん。佐伯さんも、俺のこと、好きだろ?」
「……うん。好きなんだ、と思う」
「……だよなぁ。あー、生まれるタイミングだとか、なんか色々恨めしい」
ほんと、タイミングだとかターニングポイントだとかってあるんだなぁ、と最近思う。
例えば、あのときああしてたら、なんていう『if』は沢山存在する。
あたしが、市田とこうならなければ糸屋くんと付き合ったかもしれないし、逆に出会わなかった可能性だってある。
その程度には、糸屋くんのことも好きなんだと思う。
「ちゃんと告白ってしたこと無かった、と思ってさ。言っておかなきゃって」
「そっか」
「うん。返事は? なんて言わないから」
そう自嘲気味に笑った彼は、なんとなく清々しく感じられて。
そもそもの彼は、そんなタイプの人なのだと思う。
一生懸命で一途で、明るくて。
こんな不毛な恋愛にかまけるべきではない。
多分、きっと、そう。
「……俺が勝手に思ったことなんだけど、佐伯さんてさ」
彼が言葉の先を逡巡する。
言ったものかどうしたものか、といった具合に。
あたしは首を傾げて彼の言葉の先を待つ。
「……怒らないで聞いてね?」
「……怒らないよ、多分」
そもそも、そんなに怒ったことはあっただろうか?
……いや、ないはず。
(糸屋くんには)
それとも、怒られても文句の言えないようなことを言うつもりだろうか?
「佐伯さんてさ、自分から告白とかしたことないんじゃないかって」
……あれ?
いや、ないか。
ないかもしれない。
いや、うん、ないかも?
「いや、……あれ? ……あ~、そうかも?」
「……なんだよ、それ」
あたしの迷う様に、糸屋くんが堪えきれず噴き出す。
飲み物飲んでなくて良かったね。
「いや、だって」
「わかるけどさ。百面相してるんだもん」
慈しむような優しい眼差しが気恥ずかしい。
公園で遊ぶ子供たちを眺める時のような。
「むぅ。悪かったね」
「ごめんごめん」
「いいけどさ。でも、なんで?」
『あたしが、告白をしたことがない』のくだり。
『どうして、そう思ったの?』と。
「なんとなく、かな。したことがない、というより、出来ないんじゃないかと」
彼の眼を見上げる。
いつのまにか、この1・2年の間に彼の方が背が高くなったのだと気付く。
出会った頃は、彼の方が少しだけ低かったのに。
背丈すら、追い越されている。
「佐伯さんは意外と周りを気にするっていうか、流されやすいとこあるよね」
「……それ、地味に貶してない?」
「いやぁ、気のせい気のせい」
でも、彼の言うことも一理あるのかなぁ、と。
周りの人の意向を気にしすぎて、動けなくなる。
強引にされれば流される。
それは否定は出来ない。
「だから、さ。自分から告白したこと、ないんじゃないかって。いつもされるばかりで、自分からは言わないんじゃないかって」
……彼の言葉の真意に、口を開くことさえ出来なくなる。
彼の言うことを否定するだけのことが出来ない。
『あたしはいつも流されるばっかで、人をちゃんと好きになったことがない?』
そんなことはないと思うのだが、否定する為の言葉が出てこない。
風は少しずつ冷たくなり、夜の帳が降りてくる。




