花と花の戯れ 08
始まりの記憶は、暗くて狭い鉄格子の中。
イオには幼少期の記憶がごっそりと抜け落ちている。
過去を忘れることで心を守ったのだとしたら、そこから始まる奴隷としての日々も、記憶から消えて欲しかった。
人からよく褒められる顔をしているイオは、市場では高級品らしく、他の奴隷たちとは扱いに差がつけられていた。
鞭で打たれないのは嬉しかったが、身を寄せ合って眠る奴隷たちの姿は、どこか羨ましかった。
冷たい格子の間から手を伸ばしてみても、イオに向けられるのは妬みや嫉みの眼差しだけで、それがとても寂しかった。
「あら、可愛い。この子にするわ」
その日、毒花のように微笑む少女から、目が離せなかったのをよく覚えている。
こちらを見下ろす赤い瞳も、青いほど白い肌も、艶やかな黒髪も、ぞっとするほど美しい。
そこにいる全ての大人たちが、少女の顔色を伺い、一挙一動に敏感に反応する。あれほど恐怖の対象だった調教師さえも、少女の前では矮小な存在に見えた。
これが真に人を支配する人間なのだと、この時、イオは幼いながらに理解した。
「奴隷が主人の名前を気安く呼んではだめよ」
オリーヴィアと名乗った少女に連れられた先は、高い石壁に囲まれた荘厳な邸。
その壮大な景色にイオは圧倒され、同時に胸を高鳴らせた。
これから、こんな立派な場所で働けるのだと。自分の主人になる方は、お姫さまだったのだと。愚かにも、そう喜んだ。
エカルラート家という家門の名を知ったのは、半年も経ってからだった。
煌びやかで華やかなこの邸の中で始まった生活は、奴隷市場にいた頃よりも快適で、自由で、爛れていた。
従者だなんて烏滸がましい。イオはオリーヴィアのペットだった。
肉体的には、この時期が一番辛かったかもしれない。
オリーヴィアは、苦痛に歪む姿さえも楽しむ人だった。
それでも。
「いい子ね。お前が一番上手」
そう頭を撫でてもらえることが、イオにはとても嬉しかった。
けれど、月日が経つにつれ、オリーヴィアの従僕部屋からイオが呼び出される頻度は減っていった。
嬉しいのか、悲しいのか、イオにはよくわからなかった。
ただ、新しい奴隷ばかり可愛がるオリーヴィアの姿は、あまり見たくはなかった。
イオの身長は、共に成長していった彼女の身長をいつの間にか越えていた。オリーヴィアは見下ろされるのをとても嫌う。
「あなた、もういらないわ」
そう言われた時、不思議と落胆することはなかった。
ただ、自分の番がきただけ。そう、すんなりと受け入れられた。
「でもここまで育てたのに、ちょっともったいないわよね。……そうだわ。ふふ、良いこと思いついた。あなた、犬になりなさい」
はい、以外の返事を許してもらえないイオは、ただ頷く。
もったいない、と惜しんでもらえるだけで、もう十分だと思った。
イオに「イオ」と名付けた新しい主人は、オリーヴィアとは反対に、ご主人さまと呼ぶことを禁じた。
それを踏まえても、リリアーナは不思議な人だった。
リリアーナはいつもどこか冷淡にイオを見る。それなのに、かけられる言葉も、主人として示される態度も、とても優しかった。
リリアーナはイオを使わない。
一番と褒められたことのある奉仕も、さして興味がない様子だった。
代わりにリリアーナはイオに教養を求めた。
オリーヴィアがよく馬鹿は嫌いと言っていたので、そういうことだろうと深くは考えなかった。
勉学は思いの外楽しかった。
このままでいいのだろうかと、イオは見よう見まねで使用人の真似事を始めた。それ以外に自分が役立つ術が見つからなかった。
リリアーナには他に奴隷がいない。欲してさえいないのは明白だった。イオは押し付けられた形に近い。それでも主人として優しく扱ってくれるリリアーナに、イオはどうにかして報いたいと思っていた。
いらない。そう言われることが、もう、怖かった。
リリアーナは日中ほとんど部屋にいない。
時折、使用人伝いに誰かに呼び出されているので、何かをこなしているのだろう。呼び出しから戻ったリリアーナは、表情が抜け落ちていることが多く、その冷たい空気が苦手だった。リリアーナには笑っていてほしいと、イオは思う。
オリーヴィアとは違い、リリアーナの笑顔は見ているとほっとする。
同じ赤い瞳なのに、どうしてこうも違いがあるのか。
リリアーナの部屋でひたすら本を読み込んでいるイオは、その答えに辿り着いてしまっている。
もう随分と前から、体が不調を訴えていた。
腰の辺りがズンと重く、頭が痛い。動けば目眩がし、食事は喉を通らなくなっていた。
(痛い、苦しい……)
けれどイオはその不調をリリアーナに伝えられずにいた。
自分で処理もできないこの体が、こんなに面倒なものだと知られたら。
(……嫌だ。リリアーナさまに捨てられるのは、いやだ)
オリーヴィアの高笑いが、遠くに聞こえる。
イオはリリアーナに引かれる手を、強く握り返した。
その時は、呆気なく訪れてしまった。
そもそも、人体の構造に驚くほど通暁しているリリアーナに、不調を隠し通すことなど不可能だった。
収穫祭の帰り、オリーヴィアの嘲笑に何かを勘付いたリリアーナは、部屋に戻るなりイオをひん剥いた。服を脱ぐのを躊躇ってしまったので、余計に訝しまれてしまったのだ。
「……どうして教えてくれなかったの?」
眇められた両目に、体が勝手に震える。
ごめんなさい、という言葉以外に、何と言えばいいのだろう。
「ごめん……今のは八つ当たりだわ。一緒に生活していて気づかなかった私も悪い。しかも、確かにこれは私に言いづらいね」
イオは首を振る。リリアーナは何一つ悪くない。
「どうして思い至らなかったんだろう……日常生活に支障ありまくりじゃん」
ひとりで反省を見せるリリアーナに、イオは恐る恐る口を開いた。
「リリアーナさまは、僕を使ってはくださらないのですか」
赤い瞳が冷ややかに細まる。
しまった、と思った。自分は何かを間違えたのだ。
「使うとか、そういうの嫌なの」
なら、自分に価値なんてない。
イオは胸の奥がズキズキと痛んだ。
「イオ。ご飯は誰かと一緒に食べると美味しく感じる。変な食べ物でも、誰かと一緒に食べれば楽しい。煩わしい町の喧騒も、隣に誰かいるとなんだか心地いい。そういうのを私に思い出させてくれたのは、イオだよ。ありがとう」
胸の痛みは、別の形に変わった。
「あとね、私、人のお世話をするのけっこう好きみたい。イオはね、私にいろいろなことを気づかせてくれるの。それはね、私がイオに教えてる教養なんかよりも、もっと大切で、かけがえのないものだと思うんだ」
とても大切な言葉を、もらっている気がするのに。
意識が朦朧として、言葉の意味をうまく理解することができない。
「だから私はあなたを大切にする。そして私は、私が大切にするものを、粗末に扱われるのが嫌い」
うまく理解できない、はずなのに。
自然と涙が溢れ出る。
「私に嫌われたくないのなら、あなたはあなたを大切にしなくてはいけない。きっと、簡単なことじゃない。でも、ちゃんと覚えておいてね」
胸が苦しい。苦しいのに、辛くない。
こんな感情は初めてだった。
その思いを言葉にするのが難しくて、イオはただ頷き、嗚咽を漏らす。
濡れた頬を拭ってくれる指先が優しくて。
その涙はとめどなく溢れ続けた。




