花と花の戯れ 09
応急処置を済ませたリリアーナは、汚れた手をハンカチで拭い、長椅子にくたりと沈んだイオの頬をぺちぺちと叩いた。
長いまつ毛が震え、濡れた青い瞳が恍惚と開く。
「頑張るのはこれからだよ。今からここに打ち込まれている魔術を取り除く」
イオはまだどこかぼんやりとしている。涙を流しすぎたせいだろう。リリアーナが泣かせたわけではない。はずだ。こればかりは自信がなかった。
「相当痛むと思う。舌を噛まないように、歯を食いしばっていなさい」
リリアーナの言葉にイオはみるみる青ざめていく。
可哀想だったが、二言はない。
魔術を展開し、詠唱を始める。
陣を描き、そこに刻まれた魔術痕を解析した。
リリアーナの魔力が深部へと辿り着き、イオの体が弓形に反る。その頭をそっと撫でた。
「もう少し頑張ってね。……何この胸糞悪い命令式。分析して対抗術式作ってやろうかな」
眉間に皺を寄せていたリリアーナはすぐさま我に返る。
そんな使用法が限定的すぎる魔術を考案してどうする。
「術式掌握。イオ、息を吐いて。……吸って。……そう、上手だよ。いい子。吐いて……吸って、息を止めなさい」
体に打ち込まれた術式を引き摺り出す。
リリアーナは呪いのように蠢くそれを、握りつぶした。
その余波が暴風となり、部屋中に吹き荒れる。
それでもイオは、小さな呻き声を漏らしただけ。
額に浮かぶ大粒の汗と乱れる呼吸が、受けた痛みの大きさを物語っている。
(……この子、痛みに慣れすぎている)
リリアーナはイオを抱きしめた。
胸が痛い。
優しい人は、優しい扱いを受けるべきだ。
それからしばらくイオは高熱にうなされた。
魔術によって引き起こされた体の反応を、魔術で鎮めることはできない。
リリアーナはイオを原始的な手法で看病し続けた。
人を壊し、苦しめるのではなく、癒やすために費やす時間は、楽しかった。
そんな自分の一面を知れたことが、嬉しかった。
(私って誰かに献身的になれるんだ)
全快したイオを見て、言葉にできない達成感と満足感を覚えた。
なんとなく、自分が誇らしい。
リリアーナは、体を小さくして俯くイオの手を取って、よかったぁ、と笑った。
この頃、イオはよく笑うようになった。
言葉も増え、体を強張らせる頻度は減った。
その変化にリリアーナは、よしよし、いいぞ、と胸を張る。
だがひとつ、困ったことがある。
椅子に座り本を読んでいたリリアーナは、足元に視線を向けた。
「……なんか近いんだよな」
「何がですか?」
床で本を読んでいたイオが、ぱっとこちらを仰ぎ見た。
「……床、痛くないの?」
「むしろ椅子より落ち着きます」
そういうことじゃないんだけどな。
リリアーナは、うーん、と首を捻る。
「そろそろ寝よっかな」
「はい。おやすみなさいませ、リリアーナさま」
名前を呼ぶ声が、どこか甘い。
リリアーナは、しまったなぁ、と遠くを見た。
「リリアーナさま、おはようございます。朝食の準備ができました。今日はリリアーナさまの好きなフルーツサンドですよ」
「いってらっしゃいませ、リリアーナさま。お早いお戻りをお待ちしております」
「おかえりなさいませ、リリアーナさま。見てください、カーテンを変えてみました。窓もピカピカです。これで窓を開けなくてもお外がよく見えますよ」
「リリアーナさま、この教本、読み終わりました。次は何の勉強をしたらいいですか?」
リリアーナさま。リリアーナさま。
一日に何度も呼ばれる名前に、リリアーナは、ううむ、と胸の内で腕を組む。
手負いの犬を介抱したら、思いのほか懐かれてしまった。そんな心地だ。
気を許せる者の存在は、健全な精神を維持していく上で重要だ。だがしかし、果たしてその存在は自分で良いのだろうか。
リリアーナがイオに与えてやれるものは、それほど多くはない。
「……ねえイオ。イオってどんな女の子が好き?」
「えぇっ?! えっと、わ、分かりません……」
見開かれた青い大きな瞳。右へ左へ流れたあと、隠れるようにリリアーナを見ていた。
リリアーナは、ふむ、と考える。
今までイオは、人との関わり方が歪だったせいで、そこに生まれる感情に正しい区別がつけられていない。
(その感情は、きっと、恋じゃないよ)
いつかの未来。
イオが誰かを正しく愛することができた時。それまでの自分を、これからは後悔しないように。
リリアーナはイオから向けられる視線の熱に、気づかないふりをした。




