第27話 零華の蜜と氷の祭典
シュガーベルの賑わいの中、クレープ屋台のベンチ。
焼きたての生地の香ばしい匂いと、溶けたチョコレートの甘い香りが風に乗って漂っている。
通りを行き交う人々の笑い声、屋台の呼び込み、遠くで鳴る楽団の音。
そんな中、ベンチに腰掛けた情報屋フィーナ・ライムは腕を組み、さらりと告げた。
「――《零華の蜜》よ」
聞き慣れない響きに、クロノはチョコバナナのクレープを咀嚼しながら首をかしげた。
「ゼロ……ネクター?」
「そう、伝説のハチミツ」
フィーナが指を一本立てる。
「この北の聖域で開催される『美食の祭典』。その優勝賞品がそれよ」
リゼットが目を丸くして身を乗り出した。
「優勝賞品が……ハチミツ? 金貨とか宝石じゃなくて?」
「“そう最高峰のハチミツ”だよ
普通の蜂蜜と一緒にしないで。あれは――蜂蜜の王様よ」
クロノがもぐもぐとクレープを噛みながら眉を上げる。
「蜂蜜の……王様?」
「ええ。採れるのは十年に一度とも言われてる。北の聖域に咲く“零華”って花、その蜜だけを集めて作られる特別な蜂蜜」
フィーナはわざとらしく肩をすくめた。
「しかも採れる量は、せいぜい小瓶一本。だから王侯貴族でも滅多に口にできない」
「そ、そんなに貴重なの……?」
リゼットが思わず息を呑む。
「貴重どころじゃないわ。料理人の間じゃ――」
フィーナはにやりと笑った。
「一滴で料理の格が国宝級になるって言われてる」
「……一滴で?」
クロノの手が止まった。
「香りは花畑。甘みは果実。後味は雪みたいに消える。 食べた人はみんな同じことを言うの。
“今まで食べてきた蜂蜜は何だったんだ”ってね」
しばらく沈黙。
クロノはゆっくりとクレープを飲み込んだ。
「……なるほど」
ぽつりと呟く。
「料理人としては、ちょっと味見してみたくなる話だな」
彼は静かに笑った。
「絶対そう言うと思った」
リゼットが呆れた顔で言った。
「クロノって本当に食べ物の話になると目の色変わるよね」
「料理人だからね」
「いや、それだけじゃない気がするけど」
「大会の受付、もう始まってるよ」
フィーナはくすっと笑う。
「本当に出る気なんだ……」
リゼットが半ば呆れた声を出す。
クロノは残りのクレープをぱくりと食べた。
「せっかくだしね」
「その“せっかく”が軽すぎるのよ!」
シュガーベル中央広場。
そこにそびえ立つ巨大な氷の建築物が、祭典の受付会場だった。
まるで氷山をそのまま切り出して作ったかのような、透き通る白銀の宮殿。
陽光を受けた氷の壁は七色の光を反射し、広場全体をきらめかせている。
甘い蜜の香りと焼き菓子の香ばしさ、異国の香辛料の刺激が混ざり合い、まるで香りの魔法に満たされ広場全体を包み込んでいた。
まさに美食の祭典にふさわしい空気だ。
しかし――
その入口付近には、そんな浮かれた雰囲気とは裏腹に、異様な緊張感を帯びた長蛇の列ができていた。
コック帽をかぶった者、白衣の料理服を着た者、豪華な刺繍入りのコートを羽織る者。
世界中から集まった料理人たちが、順番を待ちながら真剣な顔でレシピを確認したり、材料の箱を抱えたりしている。
「すごい人数……」
リゼットが思わず小さく呟いた。
その声には、純粋な驚きが混じっている。
横に立つフィーナが、腕を組んだまま淡々と答えた。
「当たり前よ。優勝すれば伝説の蜜が手に入るんだもの」
「伝説って言われても……」
リゼットが広場を見渡す。
これほどの人数が集まる理由が、まだ実感として理解できない様子だ。
「料理人にとっては金貨より価値があるのよ。《零華の蜜》は」
その言葉を聞きながら、クロノは氷の建物を見上げた。
「確かに……大会の受付会場にしては、やけに豪華だな」
氷の柱には蜂や花の彫刻が刻まれている。
まるで――
「蜜の神殿みたいだ」
「いい表現ね」
フィーナが頷いた。
「ここまで本気の大会ってことか」
クロノが呟く。
「まあね」
フィーナは軽く頷いた。
「世界三大料理大会の一つだし」
「それ早く言ってほしかったんだけど」
「言ったら来なかった?」
「いや、来たと思う」
「でしょ」
クロノは感心したように周囲を見回す。
「それにしても、すごい面子だね」
近くを通り過ぎた料理人を見て、彼は目を細めた。
「さっきの人、帽子に金の刺繍入ってたけど」
「あれ、帝都の宮廷料理人よ」
「えっ」
「ちなみに向こうの人は、東方の香辛料王」
「えっ」
「あとあの人は、貴族御用達の料理人」
クロノはしばらく沈黙した。
「そんな大会に、さらっと参加するつもりの僕ってどうなんだろう」
小さく呟く。
「今さらよ」
リゼットが即座にツッコんだ。
「さっきまでクレープ食べてた人のセリフじゃない」
「腹ごしらえは大事だよ」
「そういう問題じゃないの!」
リゼットは額を押さえる。
「普通こういう大会って、もっと覚悟決めて来るものなのよ!?
数年かけてレシピ作って、材料研究して!」
「でもお腹空いてたし」
「だからそういう話じゃない!」
「大丈夫大丈夫。料理は楽しく作るものだし」
クロノは肩をすくめた。
「ここにいる人たち、全員命かけてる顔してるんだけど!?」
「命はかけてないよ」
フィーナがさらっと言った。
そんな騒がしいやり取りをしながら、三人は氷の建物の中へ歩いていく。
その瞬間――
空気が変わった。
建物の中へ一歩足を踏み入れると、ホールの空気はさらに一段階跳ね上がる。
巨大な氷の天井。
透き通る柱。
床は磨き上げられた氷の石板。
その中央には受付カウンターがずらりと並び、料理人たちが次々と登録を行っている。
そして並んでいるのは、まさに料理界の頂点。
王国最高峰の宮廷料理人。
地方の名だたる名店の料理長。
さらには貴族御用達の菓子職人。
見るからに腕利きの料理人たちが、真剣な顔で順番を待っていた。
「料理人って、こんなにたくさんいるんだね」
クロノが感心したように言う。
「いや、あんたも料理人でしょ」
リゼットは呆れ顔になった。
「そうだけどさ」
クロノは周囲を見回す。
「なんかこう……」
「?」
「思った以上に本気の人たちばっかりだ」
「当たり前でしょ!」
リゼットが小声で怒鳴る。
「あ……」
リゼットの視線が、ある人物で止まった。
一人の男。
整えられた髭。
完璧に仕立てられた白い調理服。
胸元には金糸の刺繍が施されている。
いかにも一流料理人という風格。
その顔色だけが、異様だった。
土気色を通り越して、真っ青。
今にも倒れそうなほど血の気が引いている。
王立宮廷菓子師長、ジュリアン。
王城の晩餐会で数々の名作菓子を生み出してきた、国内最高峰の菓子職人だ。
そんな彼が今。
震える手で羊皮紙を握りしめ、念仏のように呟いていた。
「……この《宝飾タルト》なら勝てる」
ぶつぶつ。
「勝てるはずだ……勝てる……勝てる……」
隣にいた料理人が、困ったように小声で言った。
「ジュリアン、落ち着くんだ」
「落ち着いている!!」
「いや全然落ち着いてません」
「これが落ち着いている顔だ!!」
「負けたら氷像になるだけですから」
「言うな!!
それが一番怖いんだ!!」
ジュリアンが悲鳴を上げた。
周囲の料理人たちも、どこか青い顔をしている。
まるで死刑台を待つ囚人のような雰囲気だ。
「……氷像?」
クロノが首をかしげた。
リゼットも同じ顔をしている。
二人の疑問に、フィーナがゆっくり首を振った。
「聞かない方がいい」
「え?」
「精神衛生上、おすすめしない」
そう言って、彼女はホールの奥をちらりと見た。
そこには、ずらりと並ぶ氷の像があった。
コック帽をかぶったまま凍りついた料理人。
鍋を持った姿で固まっている料理人。
絶望した顔のままの料理人。
「……よく出来てるなぁ」
クロノがぽつりと呟く。
「うん。芸術品だね」
フィーナはさらりと言った。
沈黙。
「え、ちょっと待って……」
事の真相を察し、リゼットの顔が引きつる。
しかし、彼女が悲鳴を上げる前に、フィーナがその口を素早く手で押さえて黙らせた。
死の香りが混じり始めた美食の祭典。
クロノ・ルミナスは、ただ『味見がしたい』という純粋な好奇心だけで、その一歩を踏み出した。




