第26話 甘味の尾行と情報屋の視線
甘味の聖域シュガーベルは――
まさに甘味の「嵐」だった。
焼き菓子の香ばしい誘惑。
とろける蜂蜜の甘い罠。
さらに焦がしたキャラメルの、抗いがたく官能的な芳香まで。
四方八方から押し寄せる糖分の包囲網に、聖女リゼットが抗う術などあろうはずもなかった。
「……危険な街ね」
鼻をひくひくさせながら、彼女は真剣な顔で呟いた。
「ここに長くいたら……間違いなく太ってしまう」
さすがに胃袋の限界を感じ、彼女は屋台通りから離れた。
少し歩いて再び腹ごなしをしようと、賑やかな通りを抜けた。
辿り着いたのは、小さな広場だった。
石畳が敷かれた、静かな空間。
遠くから祭りの歓声が、波のように聞こえてくる。
「……え?」
リゼットの視線が、ぴたりと止まった。
石畳の縁に腰掛け、ぼんやりと空を見上げている青年。
着古しているが、丁寧に手入れされた服。
穏やかで、どこか間の抜けた横顔。
「……クロノ、さん?」
思わず声が漏れた。
クロノ・ルミナス。
勇者アルクが、血を吐くような勢いで叫んでいた名前だ。
――闇の支配者。
――世界を裏から操る悪魔。
――災厄の元凶。
そんな恐ろしい二つ名を並べ立てていたが。
目の前の青年は、遠くで子供が転んだのを見て、
「あ、大丈夫かな……」
と、心配そうに腰を浮かしかけている。
(…………絶対、違うと思うのよね)
リゼットは目を細めた。
脳裏には、
『あいつは危険だ! 世界を滅ぼす存在だ!』
と絶叫する勇者アルクの姿が浮かぶ。
クロノは今。
ふわりと飛んできた蝶を見て、のほほんと微笑んでいる。
「どう見ても……人畜無害なお人好しにしか見えない」
クロノがひょいっと立ち上がる。
「っ!」
リゼットの心臓が跳ねた。
反射的に、近くの柱の陰に身を隠した。
「ここで声をかけるわけにはいかない……」
彼女は腕を組み、真剣な顔で頷いた。
「そ、そうよ。彼が邪悪な企みをしていないか。
それを確かめるのも、聖女の役目なんだから」
胸に手を当て、リゼットは自分に言い聞かせるように呟いた。
……自分でもツッコミどころ満載の理屈だとは、分かっていた。
だが、それでいい。
聖女リゼットの尾行任務が、こうして始まった。
――五分後。
クロノは焼き団子屋の前に立っていた。
「わあ、美味しそう」
迷うことなく、団子を三本購入。
そのままベンチに座り、幸せそうに食べ始める。
二十秒後。
リゼットも同じ団子を3本購入。
団子屋から離れたベンチに座り食べ始める。
「これは監視よ」
もぐ。
「監視なんだから」
もぐもぐ。
「美味しそうだった……いえ、味の確認をしているだけ」
団子は、驚くほど美味しかった。
リゼットは思わず目を閉じた。
(神様……この団子を作った職人に祝福を)
そして、そっと付け加える。
(……あと、もう一本くらいなら太りませんように)
――さらに十分後。
クロノはキラキラした目で、新作フルーツタルトの店へ吸い込まれていった。
十五秒後。
リゼットも入店していた。
背中合わせの席で、同じものを注文する。
「……フルーツタルト、一つお願いします」
……最初は慎重だった尾行も、甘味の誘惑の前では、徐々に大胆になっていく。
四軒目。
五軒目。
六軒目のクレープ屋台。
気がつけば、リゼットはクロノの隣のベンチでクレープを頬張っていた。
「……」
リゼットは固まった。
(……な、何してるのよ私! これじゃただのデートじゃない!)
自分の行動に愕然とするリゼット。
しかし、クロノのあまりに幸せそうな食べっぷりを見ていると、毒気が抜けていく。
(どんだけ食べるのよ、この人……。私、もうお腹いっぱい)
不思議なことに、胸に溜まっていた重苦しさは甘味と共に溶けて消えていた。
リゼットの表情はここ数日で一番柔らかくなっていた。
クロノが最後の一口を食べ終えた。
もちもちの生地と甘いクリームの余韻が、まだ口の中に残っている。
満足そうに息をつきながら、ふと隣を見た。
そこにいたのは――
口の端にちょこんと生クリームをつけた聖女様だった。
クロノはにこっと笑った。
「あ、リゼットさん。奇遇ですね。ここのクレープ、モチモチで美味しいですよ?」
「……え、ええ。そうね。偶然よ。本当に、たまたま通りかかっただけなんだから!」
そう言いながらも、手はしっかりクレープを持っていた。
「……でも、その……」
リゼットは気まずそうに一口かじる。
サクッとした外側の生地。
中から広がる、軽やかな生クリーム。
そして甘い果実の香り。
「……確かに、食感も良くてとても美味しいです」
小さく呟いたその声は、どこか悔しそうで。
けれど、ほんの少しだけ嬉しそうでもあった。
クロノは特に気にした様子もなく頷く。
(さっきから付いてきてたし、一緒に食べたかったのかな)
……くらいの軽い認識である。
「次はチョコバナナのクレープも美味しそうですよ?」
「もう食べられるわけないでしょう! 六軒目よ、六軒目!」
思わず鋭いツッコミが飛び出した。
「え、そうなんですか?」
クロノはぱちぱち瞬きをする。
「そうよ!!」
リゼットは真っ赤な顔で叫ぶ。
「焼き団子! タルト! ケーキ!ドーナツ! ワッフル! クレープ!
これ全部――」
そこまで言って。
しまった。と、思った。
その瞬間だった。
「ちょっと、クロノ!」
背後から鋭い声が飛んできた。
二人が振り向くと。
そこには、栗色の髪の少女が腕を組んで立っていた。
情報屋。フィーナ・ライム。
「あれ、フィーナ。なんでここに?」
「たまたまよ!」
フィーナは肩をすくめる。
そして、ゆっくり視線を横へスライドさせた。
ターゲットは――リゼット。
その口元の生クリーム。
「……へぇ」
「……っ!」
リゼットの思考が完全に停止する。
広場に沈黙が落ちた。
やがてフィーナが、ニヤリと笑う。
「聖女様」
ゆっくりと言った。
「尾行中に六軒の梯子は――」
口角がさらに上がる。
「なかなか斬新な作戦ね?」
「ち、違うわよ!!」
リゼットは真っ赤になって立ち上がる。
「これはあくまで調査で、その……っ!」
必死の弁明。
口の端の生クリームは、まだしっかりとその存在を主張していた。
「……ぷっ。聖女様って、意外と面白い人ね」
フィーナはこらえきれないといった様子で、肩を震わせる。
リゼットは顔を真っ赤にしたまま、何も言えない。
その横でクロノは首を傾げていた。
シュガーベルの空気は、相変わらず甘かった。
遠くの屋台から漂ってくるのは、焼き菓子の香ばしい匂い。
キャラメルの焦げた甘い香り。
蜂蜜の濃厚な芳香。
「そういえば、目的の物は買えました」
クロノはふと、思い出したように瓶を取り出した。
黄金色に輝く蜂蜜が、ゆっくり揺れている。
「氷晶のハチミツです」
「それが目的だったの?」
クロノは素直に頷いた。
「ふーん」
フィーナがその瓶を覗き込む。
そして、ニヤリと笑った。
「でも、それよりもっと凄いハチミツがあるわよ?」
フィーナは親指で、遠くの広場を指した。
そこでは巨大な旗が掲げられている。
――美食の祭典
シュガーベル最大の料理大会。
優勝賞品。《零華の蜜》
シュガーベルの甘い風が、三人の間を静かに通り抜けていった。




