第25話 聖女と甘い香りの聖域
港町ラーナ。
潮の香りが漂うその美しい港は――今、かつてない怒号と熱気包まれていた。
「このガキどもがぁ! 聖女様だか勇者様だか知らねえが、街中の魚を買い占めてどうするつもりだ!」
「俺たちの生活を何だと思ってるんだ! 恥を知れ!」
筋骨隆々の漁師たちが、勇者パーティを取り囲んでいた。
勇者アルク・グランドは、剣を抜くこともできず、ただ中央で縮こまっている。
原因は――
彼の発案した作戦だった。
名付けて。
『美食の情報戦』
だが結果はこうだ。
港町の魚を買い占めた迷惑な連中。
以上。
「……ううっ……胃が……」
アルクがその場に膝をついた。
「胃が痛い……僕は勇者……勇者のやることは全部正しい……はずなのに……」
精神的なショックと胃痛により、勇者は再起不能の休養を余儀なくされる。
その様子を見て、騎士ガレオン・ドレイクが深くため息をついた。
「……もう限界だ」
重い鎧を鳴らしながら立ち上がる。
「俺は海産物と戦うために修行したんじゃない。頭を冷やしてくる」
そのまま一人で港を去っていく。
止める者はいない。
波の音だけが、静かにその背を見送っていた。
最も深刻なダメージを受けていたのは。
聖女リゼット・フローラ。
優しく、繊細な心を持つ少女。
その心は、今まさに粉々だった。
「……もう限界。少しだけ癒やしが必要なの……だから私、シュガーベルへ行きます」
「……」
魔導師ヴェノム・クレイスが眉を上げる。
「甘味の聖域?」
「ええ」
リゼットは小さく頷いた。
「あそこの甘いものを食べないと……本当に壊れてしまいそうだから……」
ヴェノムは腕を組み、しばらく考えた。
そして肩をすくめる。
「……最低な気分ね。
私も用事を済ませたら行くわ。
あそこの甘い物で、この不快感を全部洗い流さないとやってられない」
リゼットは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに小さく息を吐いた。
「……そう」
その声音には、どこか救われたような響きが混じっていた。
勇者パーティ去って2時間後。
港町ラーナの酒場で、漁師たちが酒を飲みながら語っていた。
「結局、あいつら何しに来たんだ?」
「さあな……」
「魚全部買い占めるようとして、勇者が胃痛で倒れて、騎士が海を見に行って、聖女が甘い物食いに行くため離れた」
しばらく沈黙。
「……勇者パーティって、あんなもんなのか?」
別の漁師が酒を一口飲んで言った。
「知らねえよ。ただ一つだけ言える」
彼は港を指さした。
「もう二度と魚を全部買い占めるな」
その日から港町ラーナでは、
勇者胃痛という新しい言葉が生まれた。
意味は――
自分のミスで自分が一番ダメージを受けること。
勇者アルク・グランドは、知らない。
自分の作戦が、後世にまで残る言葉になったことを。
もっとも。
その頃、彼はまだ宿屋のベッドで。
「……胃が……勇者なのに……」
と、うめき続けていたのだが。
こうして。
かつて最強と呼ばれた勇者パーティは、一人の雑用係への執着と一山の魚によって崩壊した。
甘味の聖域、シュガーベル。
一面の銀世界の中に、宝石のように色とりどりの菓子屋台が並ぶ。
到着したばかりのリゼットは、まだ心の傷が癒えていなかったが、漂ってくるバニラやキャラメルの香りに鼻をぴくつかせた。
「……美味しい。美味しいわ……っ」
焼き立てのワッフル、粉雪のようなシュガーをまぶしたドーナツ。
次々と口に運ぶたび、漁師たちの怒声が遠のいていく。
リゼットは聖女としての重圧を一時的に投げ捨て、ただの一人の少女として至福の時を過ごしていた。
「やっぱり、美味しいものは正義だわ……!」
ふわりと甘い蒸気が立ち上るホットチョコレートを両手で包み、リゼットは小さく息を吐いた。
白い息が冬の空気に溶けていく。
周囲では子どもたちが笑いながら菓子を頬張り、旅人たちは屋台を見て回り、商人たちは声を張り上げていた。
「焼きたてシュガーワッフル! 今なら蜂蜜増量だよ!」
「精霊蜜のキャンディー! 聖域限定だ!」
賑やかな声に包まれていると、胸の奥に溜まっていた重いものが少しずつ溶けていく。
リゼットはふと空を見上げた。
淡い雪が、静かに舞っている。
「……いい街ね」
ぽつりと呟く。
港町ラーナで浴びた罵声も、勇者パーティの空気も、今は遠い。
ここでは誰も彼女を責めない。
ただ、甘い香りと笑顔があるだけだ。
その時だった。
遠くの広場の方から、ひときわ大きな歓声が上がる。
「おおっ、始まったぞ!」
「精霊王の祝福菓子だ!」
人々がざわめきながら広場へ集まっていく。
リゼットも思わず足を止めた。
「祝福菓子……?」
興味に引かれて、そっと人の流れに混ざる。
広場の中央では、巨大なケーキのような白い菓子が、雪の台座の上に置かれていた。
その表面には、氷の結晶のような美しい飾りが輝いている。
屋台の店主が誇らしげに説明していた。
「これはシュガーベル名物、“フロストケーキ”!
精霊王フロストレイアの祝福を受けた特別な甘味だ!」
歓声が上がる。
「……きれい」
リゼットは思わず息を呑んだ。
それはまるで、雪でできた宝石のようだった。
この時、まだ誰も知らない。
この甘い香りに満ちた聖域で。
雪のように静かに、しかし確実に。
世界を巻き込む騒動が、動き出そうとしていた。




