8.別離
会議が終わった後だった。
「話がある」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
エルヴィンだった。その表情からは感情が読み取れない。
「少し時間をもらえるかな」
私は黙って頷いた。人気のない廊下まで来たところで、エルヴィンは足を止めた。しばらく沈黙が続く。
やがて。
「…満足だったかい?」
私は目を瞬いた。
「え?」
「皆の前で僕を否定できて」
穏やかな声だった。けれどその目は少しも笑っていない。
「そんなつもりでは――」
「ない?」
エルヴィンが小さく笑う。
「君は最近、そればかりだ」
胸がざわついた。何かがおかしい。
私はただ研究を進めたかっただけなのに。
「僕の意見に反対して、僕の判断を疑って、僕の立てた方針を覆す」
一歩近づく。
「楽しいか?」
私は言葉を失った。
「君は変わったね」
エルヴィンは静かに言う。
「前はもっと素直だった」
「……」
「僕を信頼してくれていた」
「信頼しています」
思わず口をついて出た。するとエルヴィンは鼻で笑った。
「信頼している人間を、公の場で否定したりしない」
私は俯いた。
違う、そうじゃない。
研究者として意見を述べただけだ。
けれど、その言葉は出てこなかった。しばらく沈黙が落ちる。やがてエルヴィンは小さく息を吐いた。
「もういい」
「え……?」
「別れよう」
頭が真っ白になった。何を言われたのか、一瞬理解できない。
「最近の君を見ていると分かるんだ」
エルヴィンは淡々と続ける。
「君はもう、自分は僕より優秀だと思っている」
「そんなこと思ってません!」
「思っているよ」
断言される。
「だから僕の言葉を聞かなくなった。だから反論するようになった。…だから僕を否定する」
ぽろり、と涙が零れ落ちた。
好きだった。
本当に好きだった。
前世の記憶を思い出した今でも、その気持ちだけは嘘にならない。
学生時代。誰にも相手にされなかった研究を面白いと言ってくれた人。
王立研究所への道を開いてくれた人。
初めて私を認めてくれた人。
エルヴィンとの思い出は、確かにあった。
だから苦しい。
本当は気付いていた。前世の記憶は、ずっと叫んでいた。
――逃げろ、と。
このままでは同じ道を辿る、と。けれど心は簡単に割り切れなかった。
だって私は、今世のエルヴィンを愛していたのだから。
それなのに。
「泣く必要はない」
エルヴィンは冷たく言った。
「君が望んだ結果だろう?」
私は唇を噛み締めた。
違う。
こんなことを望んだことなんて一度もない。それでも、今になってようやく分かる。
エルヴィンは、一度も私が隣に立つことを望んでいなかった。
優秀な助手。頼れる補佐。
それ以上ではなかったのだ。
涙が止まらない。それでも私はゆっくりと息を吸った。
「……分かりました」
震える声だった。エルヴィンが僅かに目を見開く。きっと私が縋ると思っていたのだろう。謝ると思っていたのだろう。
けれど、もう無理だった。
「今まで、お世話になりました」
深く頭を下げる。
顔を上げると、エルヴィンは何か言いたげに口を開きかけた。だが結局何も言わなかった。
私はそのまま背を向ける。
涙で前が滲んでいる。
それでも足は止めなかった。
もう、この人の隣にはいられない。
研究棟の廊下を歩く。
好きだった。
本当に好きだったから、認めて欲しかった。
だから胸が痛い。
けれど同時に、どこかで安堵している自分もいた。
前世の記憶が囁く。
――これでいいのだと。
その時だった。
「そんな顔で歩いていると壁にぶつかるぞ」
低い声が降ってくる。
顔を上げると、レオナルド統括が立っていた。
「統括…」
私は慌てて目元を擦る。
「見なかったことにしてください」
「…研究者は見たものを、見なかったことにはできん」
私は思わず苦笑した。
レオナルドは私の赤い目を一瞥すると、興味を失ったように視線を逸らした。
「明日からの試験準備は終わったのか」
「……まだです」
「そうか」
短い返事。
それだけだった。慰めもない。
事情を聞こうともしない。
けれど去り際に、レオナルドはふと足を止めた。
「研究は気を遣わん」
「え?」
「お前が泣いていようが、笑っていようが、結果が変わるわけじゃない」
私は目を瞬いた。
「……それ、慰めのつもりですか?」
思わず聞くと、レオナルドは少しだけ眉をひそめた。
「違うのか?」
真顔だった。
私はとうとう吹き出してしまう。涙混じりの、情けない笑いだった。
レオナルドは理由も聞かずに踵を返す。
「明日の追加試験だが」
「あ、はい」
反射的に背筋が伸びる。
「解析班から装置を借りておいた」
私は目を見開いた。
「え……?」
「構造解析をするんだろう」
当然のように言う。
「共同検証になった以上、待っている時間はない」
そう言って、一枚の許可証を差し出した。
私は慌てて受け取る。
「ありがとうございます」
「礼は結果が出てから言え」
低い声が返ってくる。
そのまま立ち去ろうとしたレオナルド統括は、ふと足を止めた。
「シェリー」
「はい」
「仮説を否定するための試験だったな」
「はい」
「なら遠慮なく潰してこい」
灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「正しい仮説なら残る。間違っていれば消える。それだけだ」
特別な言葉ではない。
けれど不思議と胸に残った。
正しいかどうか。
価値があるかどうか。
誰かに認められるかどうか。
そんなものは、人の気分で決まるものではない。
研究結果が示す。ただそれだけだ。
「……はい」
今度は少しだけ、自然に笑えた。
レオナルド統括はそれを確認すると、何も言わずに去っていく。私は手の中の許可証へ視線を落とした。
胸はまだ痛い。
けれど立ち止まっている暇はなかった。
明日には、確かめるべきことがあるのだから。




