2.始動
灰熱病特効薬開発計画の初会議は、王立研究所の第三会議室で行われた。
重厚な扉を前にして、私は深く息を吐く。
「入らないのか?」
不意に声をかけられて、私は慌てて振り返った。
そこには、一人の男性が立っていた。無造作に後ろで括られた髪に、鋭い灰色の瞳。
王立研究所特効薬研究部門責任者。そして今回の計画責任者でもある人物。私のような下っ端の研究員でもよく知っている。
レオナルド統括だった。
「し、失礼しました」
「君がシェリーか」
名札を確認するように視線を向けられた。
「エルヴィンから聞いている」
その言葉に、胸が跳ねる。
結局あれから、エルヴィンとは会話ができていなかった。
彼は私のことを、なんと説明しているのだろう。
「優秀な助手のようだな」
私は固まった。
「……助手、ですか?」
「違うのか?」
レオナルドが首を傾げる。
「…いえ。今回は、研究員の一人として参加させていただく予定です」
「そうか」
短い返事だった。だがその一言に、妙な安堵を覚えた。
否定も、嘲笑もない。ただ事実を事実として受け入れる姿勢に、胸が温かくなるのを感じた。
「なら中に入れ。会議はもう始まる」
「はい」
私は扉へ手をかけた。
研究者として。初めて、自分の名前で。
会議室には既に数十名の研究者が集まっていた。その中にエルヴィンの姿もある。目が合うと、彼はいつものように柔らかく微笑んだ。
その笑顔に、少しだけ力が抜ける。
全員が席に着いたところで、レオナルド統括が立ち上がった。
「時間だな」
会議室が静まり返る。
「本日より、灰熱病特効薬開発計画を正式に開始する。自己紹介は簡潔に済ませろ」
低くよく通る声だった。
レオナルド統括が席に腰を下ろすと、順番に自己紹介が始まった。研究部主任、薬学班研究者、病理分析担当。私は自分の番が来ると、立ち上がった。
「シェリーです。よろしくお願いします」
短く頭を下げると、皆の目が集まる。若い女研究員。そんな視線が混じっている気がした。
じとりと背中が汗ばんだ。けれど、そこまで胸は痛まなかった。
自己紹介が終わると、すぐ本題に入った。
「まずは現状の共有からだ」
机の上に資料が配られる。
灰熱病。
発熱とともに急速に全身機能を低下させる原因不明の感染症だ。初期症状は軽い倦怠感と食欲低下に留まるが、発症から数日で肝機能障害や神経症状を引き起こし、重症化した場合の致死率は極めて高い。
これまで有効な治療法は確立されておらず、現在進められている特効薬開発計画が唯一の希望とされている。
灰熱病患者の発症記録。病状の進行速度。候補薬剤の検証結果。各研究施設から集められた報告書。資料には大量のデータが並んでいた。
「候補薬剤の有効率に、施設ごとの差が出ています」
一人の研究員が説明を始める。
「中央研究施設では七割を超える改善が確認できていますが、西部研究施設では期待する効果が四割も得られていません。」
「実験動物の個体差では?」
「統計学的には、個体差では説明できません」
「製剤の精製方法、製造拠点による差異は?」
「調査中です」
議論が続く中、私は黙って資料を眺めた。
有効率。投与量。観察期間。実験動物の種類。どれも大きな差はない。それなのに結果だけ異なる。
ふいに、頭の奥で過去の記憶が蘇る。
『結果が異なるなら、まず環境要因を疑え』
前世の私は、何度もその言葉を聞いた。
温度管理の不備で、何度も実験サンプルを無駄にしたことを思い出す。
私は反射的に資料を捲った。
中央研究施設。
西部研究施設。
山岳研究施設。
所在地を順に追う。
(…寒冷地?)
さらに飼育記録を見る。
平均飼育温度。
二十六度。
十八度。
十九度。
他施設より明らかに低い。
私は思わず手を挙げる。
「どうした」
レオナルド統括が言った。
会議室の視線が集まる。
「薬剤の温度補正が必要ではないでしょうか」
一瞬、場が静まった。
「続けろ」
「今回の薬剤で使用しているアメルリアの根は、有効成分を抽出するため、抽出時の温度を七十二度前後を維持する必要があります」
資料を示しながら、続ける。
「さらに、有効率が低い研究施設は全て寒冷地です。そして実験動物の飼育温度も他施設より低い。もし有効成分の吸収率や、代謝速度も温度の影響を受けるのであれば、薬剤そのものではなく実験環境によって結果が変化している可能性があります」
「…確かに」
数人の研究者が資料を見直し始める。
「これなら結果のばらつきを説明できるかもしれない」
レオナルド統括は腕を組んだまま資料に目を落とした。
「温度条件を統一した再実験を行う必要があるな」
その一言で、室内の空気が変わった。
新たな検討方針が決まったのだ。
「検証班を編成する」
レオナルド統括はそう言ってから、こちらへ視線を向けた。
「シェリー。君も参加しろ。この仮説を最初に提示したのは君だ」
レオナルド統括は淡々と言う。
「はい、やらせてください」
私が頷くと、レオナルド統括は満足そうに頷いた。
「よろしい」
そうして会議は次の話題へと移っていった。
けれど私の胸は、ずっと高鳴ったままだった。
会議が終わると、研究者達は資料を抱えて席を立った。私も慌てて資料をまとめる。
(研究室に戻って、アルメリアの特性をもう一度洗い直そう)
そう思い、立ち上がった時だった。
「シェリー」
背後から声がした。
振り返ると、エルヴィンが立っていた。
いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「少しいいかな」
「もちろんです」
私は頷いた。
第三会議室の廊下へ出る。
人通りが少なくなったところで、エルヴィンは足を止める。
「さっきの会議だけど、良い意見だったと思うよ」
優しい声色だった。
「ほんとうですか!」
私は少しだけ肩の力を抜く。
「ああ、ただね」
エルヴィンは微笑む。
「こういう時は、一度私に相談してほしかったな」
「相談ですか?」
「うん。会議の場で発言する前に、一度私に見せてくれれば良かった」
「でも…」
「シェリーは初めてだから分からないと思うんだけどね」
遮るように、エルヴィンが続ける。
「研究方針は慎重に決めなければならない。仮説がまちがっていたら、責任を負うのは君なんだよ」
「それは…」
「今回は統括が認めてくれたけれど、いつもそうとは限らない。無理をして頑張りすぎなくていい」
前世の記憶が脳裏をよぎる。
『昇進はまだ早い』
『無理をしなくていい』
同じだ。
そう言って優しく、穏やかに、私は機会の場を失っていった。
「シェリー?」
黙り込んだ私を、不思議そうに見つめる。
少し前なら、私はきっと謝っていた。
勝手に発言して申し訳ない、と。
次からは相談する、と。
けれど。
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
エルヴィンの表情が僅かに緩む。
「でも、自分で考えて発言したいんです」
「…そうか」
エルヴィンの目は、もう笑っていなかった。
「研究者として、挑戦してみたいんです」
「そうか」
もう一度だけ繰り返す。
その声色は、妙に冷たいものだった。
私はその時まだ知らなかった。
この日を境に、私たちの関係が少しずつ変わり始めることを。




