1.想起
「君には、まだ早いんじゃないかな。」
その言葉に、私は目を瞬いた。
王立研究所に勤めて五年。
女が研究員に?ーーそんな視線に晒されながらも、必死に成果を積み上げた。
地道な実験に、膨大な文献調査。何度も失敗を繰り返しながらも、それでも食らいついてきた。
そして今日。
王立研究所が主導する『灰熱病特効薬開発計画』の若手研究員枠に、私の名前が挙がった。
国家予算が投じられる大規模計画であり、その成果は王国の未来を左右するとまで言われている。若手研究員にとっては、これ以上ない名誉だった。
昼休憩から戻る途中、所長に呼び止められた私は、そのまま所長室へと向かった。
(何か失敗した…?)
そんな不安を抱えながら所長室へ入ったわたしに告げられたのは、「灰熱病特効薬開発計画の研究員枠として、参加してみないか」という打診だった。
そしてその中心メンバーの一人には、教育係であり恋人である、エルヴィンの名も連ねられている。
嬉しくて、夢かと思った。
「ぜひ、参加させてください…!」
二つ返事で了承すると、私はその足でエルヴィンの研究室へと足を運んだ。
彼なら喜んでくれると思ったのだ。誰よりも私を認めてくれていたから。
女性研究者など珍しい時代で、露骨に見下されることもあったし、雑用を押し付けられることもあった。
そんな中で、エルヴィンだけは違った。
学生時代、私の研究を面白いと言ってくれたのが、彼だった。当時のエルヴィンは、既に王立研究所の若手研究員として働いていた。
誰にも見向きもされなかったテーマを、興味深そうに読み込んでくれていた。
私の努力を評価し、才能があると言ってくれた。
だから私は彼に憧れた。
その憧れがやがて恋になり、恋人になれた時は天にも登る思いだった。
孤独だった私にとって、エルヴィンは理解者であり、目標であり、特別な人だった。
王立研究所への推薦状を書いてくれたのも彼だった。
彼の役に立ちたいと思った。
王立研究所へ入所してからは、教育係であるエルヴィンの補佐を務めてきた。論文の下調べや文献の調査、実験結果の整理。
彼の力になれることが、自分のことのように嬉しかった。
ーーやっと、彼の補佐ではなく、同じプロジェクトメンバーとして、彼と仕事ができる。
そう思うだけで、胸が弾んだ。
そうして彼にプロジェクト参加の旨を報告すると、思ってもみない言葉が飛び出した。
「…え?」
「いやだからね、シェリー。君にはまだ、早いんじゃないかな、と言ったんだ」
いつものように、穏やかな声だった。
「シェリーはとても優秀だ。ただあのプロジェクトは責任が重すぎる。失敗した時に傷つくのは君だろう?」
私は言葉に詰まった。
確かに大規模な研究だ。参加する研究者も、王立屈指の顔ぶれが揃う。
ーーでも。だからこそ。
だからこそ、自分の実力を試したいのだと。そう伝えようとした時だった。
「それに、君はまだ学ぶべきことが沢山ある。焦る必要はないよ。まずは私の補佐として、経験を積んだ方がいい」
その瞬間。
がつん、と。頭を殴られたような衝撃が走った。
息が止まる。
心臓が大きく脈を打つ。
(今の言葉。どこかで聞いたことがある気がする)
「シェリー?」
エルヴィンの声が遠い。
頭の奥がじわりと熱を帯びて、見たこともない景色が広がった。
高い建造物。眩しい人工照明。
透明なガラス。白衣を着た人々。
薬品の匂い。実験室。
私は、その場所を知っていた。
製薬会社の研究所。私はそこで、働いていた。
新しい発見が好きだった。
仮説を立てることも、実験を繰り返すことも、大好きだった。
『君にはまだ早いよ』
男が言う。
優しい声だった。
『新薬計画への参加は見送ろう。失敗したら、傷つくのは君なんだ』
別の日。
『昇進の話?』
『家庭との両立は厳しいんじゃないかな』
また、別の日。
『無理をしなくていいんだ。僕が養うから』
知らないはずの記憶が、駆け巡る。
私を心配する顔で、愛していると呟く声で、夫は繰り返した。
そうして、気付けば前世の私は、研究職を辞め家庭に入っていた。
友人と疎遠になり、社会から孤立し、孤独に気を病んだ私は、三十代にして肺炎で亡くなった。
(これは……前世の記憶だ)
息を呑んだ。
今になって、ようやく気付く。
あれは愛情などではなかった。
ゆっくりと顔を見上げると、目の前には、エルヴィンが心配そうな顔でこちらを眺めている。
彼は前世の夫ではない。容姿も声も、全く異なる。
それなのに。私を見つめる目が。
私のためだと言いながら、私の人生を決めようとするその姿勢が。
完全に重なって、同じに見えた。
「シェリー?」
心配そうな声。優しい恋人の顔。
孤立しそうな私を、いつも支えて、認めてくれた人。
ーでも。
背筋を冷たいものが這い上がる。
私は知っている、この人のやり方を。
(ああ……この人も私の人生を奪う人だ)
前世なら。今までの私なら。きっと頷いていた。
「エルヴィンがそう言うなら」そう自分に言い聞かせて。夢を諦めていただろう。
けれど。
私はそっと息を吸った。
「失敗を繰り返すのは、研究の基本だと教えてくれたのはエルヴィンです」
「シェリー…?」
「私は参加したいと思っています」
そう言い切ると、エルヴィンは目を瞬いた。まるで予想外の返答だったと言わんばかりに。
「…そうか」
エルヴィンは少し考えるように視線を落とした。
「私の補佐として参加できるよう、取り計らおう」
困ったように笑って、言葉を続けた。
「所長には私から伝えておくよ」
「違うんです」
自分でも驚くほど声が震えていた。
ーーけどもう、逃げない。
「エルヴィンと同じ、メンバーの一員として、参加したいんです」
沈黙が落ちた。
次の瞬間。
ダンッ
激しい音が研究室に響いた。
私は思わず肩を震わせる。
エルヴィンの拳が、机に叩きつけられていた。
感情的なエルヴィンを見るのは、初めてだった。
「ああ……すまない」
ほんの一瞬だけ見せた苛立ちはすぐに消え、穏やかな表情に戻る。
「驚かせるつもりはなかったんだ」
何事も無かったかのような声。
「わかったよ。参加するといい」
言い聞かせるような声なのに、私は胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。
「無理だと思ったらすぐ言うんだよ。君は一人で抱え込みがちだから」
昔から変わらない、優しい恋人の、理解者の顔。
「降りたくなったら、すぐに私が取り計らうからね」
その言葉に、私はようやく気付いた。
エルヴィンは一度も、
『君ならできる』
『一緒に頑張ろう』
とは言わないことに。




