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第九話 リーゼロッテ、異国に立つ

ライナ・ヘルツォークは、思っていたより若かった。



三十代前半。切れ長の目に、短く切り揃えた黒髪。

背筋がまっすぐで、言葉遣いは丁寧だけど…すべてを見透かしているような鋭い目をしている。


宿場町の喫茶店で待ち合わせた。窓際の席に、書類の束を並べて座っていた。



「遠路はるばるお越しいただき、感謝します。……まず、連邦の法制度についてお話しさせてください」



ライナは書類を一枚ずつ広げながら、合議法廷の仕組みを説明した。



「連邦の法廷は、審判官三人と市民陪審五人で構成されます。有罪か無罪かは、八人の多数決。五票以上で判決が確定します」



「……判決を決めるのは、多数決なのですね」



「ええ。あなたの国の断罪裁判とは根本から違います。あちらは審判官一人の裁量ですが、こちらは八人の心を動かさなければならない」



五人の市民陪審。

つまり、法律を知らない一般の人たちが判決に関わる。


論理だけでは足りない。五人の「納得」を得なければならない。



「こちらでも、弁護人の資格は必要なのですか?」



「連邦の弁護士資格が必要です。ただし、例外として臨時許可制度があります。連邦の弁護士が推薦し、審判官が認めれば、外国人でも法廷に立てますよ」



「そうなのですね…では、私のことを推薦してくれる弁護士さんを見つけたいのですが?」



「一人、心当たりがあります。カスパル・ヴィントという若手の弁護士です。……ただ、彼は少し気難しい人物で、外国人が連邦の法廷に立つことをあまり良く思っていません」



「良ければ会わせていただけますか?」



「手配します。……あと、もう一つ」



ライナが声を落とした。



「…ゲッツはすでに連邦の有力貴族に取り入っています。彼は『法律顧問』という肩書きで、貴族たちに合議法廷で勝つ方法を教えている。大金を取って…」



「……同じことをしているのですね」



「ええ。場所が変わっただけで、手口は同じです。そして最初の被害者が出ています」



ライナが一枚の書類を差し出した。


その書類に書かれていたのは、マティアス・ベルガーという男の告発状の詳細だった。


歳は二十三歳。機械仕掛けの時計を作る若い職人らしい。


貴族の工房から設計図を盗んだとして告発されている。



「マティアスの師匠は、エルベルトで最も腕の立つ時計職人でした。その師匠のオリジナル設計を、ヴァルト男爵という貴族が自分のものだと主張しています。ですが、設計図は元々師匠が描いたもので、ヴァルト男爵が師匠から無断で写し取った。……しかし男爵は逆に、マティアスが盗んだと告発した、という内容です」



借金の脅しで冤罪を仕掛けたクラウス男爵と、同じ構造だ。


盗んだ側が、盗まれた側を告発する。



「マティアスさんには、弁護人はいるのですか?」



「弁護人はまだいません。近いうちに合議法廷にかけられます」



「……わかりました、では私が弁護を引き受けます」



言った後で、自分の声が震えていることに気づいた。

ここは知らない国で、知らない制度で、知らない言葉の法廷。


それでも「引き受けます」と言えたのは、あの最初の裁判で自分を弁護したときと同じ衝動だ。




翌日、カスパル・ヴィントに会った。


二十代後半。痩せぎすで、眼鏡をかけて、目つきが鋭い。

第一印象は……頭の切れそうな、面倒くさそうな人といった感じだ。



「あなたがリーゼロッテ……公爵令嬢が弁護人を名乗る国から来た人ですか?」



開口一番がそれだった。どうやら歓迎はされていない。



「はい。臨時許可の推薦をお願いしたいのですが…」



「なぜ私が外国人の推薦をしなければならないんですか…連邦の法廷は連邦の法律家が守るべきでしょう?」



「…その連邦の法廷で、無実の職人が有罪にされようとしているのです」



「……」



「カスパルさんはその事件をご存知でないのですか?」



カスパルの表情がわずかに変わった。


知っている。知っていて、手を出せずにいるのだろう。


「……ヴァルト男爵は連邦でも有力な貴族です。彼を敵に回す弁護士は、この国にはいない」



「だから外国人の私が適任です。敵に回しても、失うものがないから」



カスパルが眼鏡の奥で目を細めた。


何かを測っている目だ。こちらの覚悟か、能力か、それとも正気かどうかを。



「……推薦はします。ただし、法廷では一切私に口を出さないでください。連邦の法を知らない人間が暴走すれば、被告人の立場が悪くなるだけだ」



「はい、わかりました!」



「本当にわかっているのですか…」



「正直に言うと…この国の知識はありません。ですからこれから貴方の傍で学びます。良ければ教えてください。連邦の法廷で何をすべきで、何をしてはいけないか」


私はそう言うと頭を下げた。



カスパルが少し驚いた顔をした。

たぶん、頭を下げられると思っていなかったのだろう。



「……明日の朝、法廷の手続きから説明します。遅刻しないでください」


「…!あ、ありがとうございます!」



法廷の日。


連邦の法廷は、こちらの国の大広間とは全然違った。


半円形の部屋。正面に審判官席が三つ、その両脇に陪審席が五つ。

被告席は中央にあって、それを挟むように弁護人と告発者は左右に分かれて立つ。


天井が高くて、声が反響する。


マティアスが被告席にいた。


痩せた青年。手は荒れている。

目の下に隈があって、まともに眠れていないのが見える。



「大丈夫です。あなたの無実を証明します」



マティアスが顔を上げた。



「……本当ですか。あなたは外国の方だって聞いたけど」



「外国の弁護人でも、嘘を暴く方法は同じです」



そう言った。


そう信じていた。




告発者のヴァルト男爵は、クラウス男爵とは全然違うタイプだった。


五十代。恰幅がよくて、声が大きくて、堂々としていて、その態度から余裕がみえる。


目は泳いでいないし、緊張もしていない。


……完全に勝てると思っている顔だ。



「設計図は我が家の技師が描いたものです。職人マティアスが工房を訪れた際に、書庫から持ち出した。証拠として、我が家の書庫に残っていた設計図の控えを提出します」



私は手元で共有された控えを見た。

きれいに描かれた設計図。日付は二年前。


でも、これはおかしい。ライナの調査では、マティアスの師匠がこの設計を完成させたのは三年前だ。


つまり、師匠が先に描いて、ヴァルト男爵が一年後に写し取ったはず。



「審判官。日付について確認させてください。この控えの日付は二年前ですが、マティアスの師匠であるオスカー氏がこの設計を完成させたのは三年前です。オスカー氏の工房の帳簿にも記録があります」



帳簿の写しを提出した。カスパルが事前に用意してくれたものだ。



ヴァルト男爵が鼻で笑った。



「帳簿の日付など、後からいくらでも書き換えられる。我が家の控えは公証人の印がある。どちらが信頼できるか、明白だろう」



公証人の印。


……こちらの国にはなかった制度だ。

公証人が日付の正当性を証明する仕組み。


つまり、男爵は公証人を押さえている。偽の日付に公的なお墨付きを得ているのだろう…。



嫌な予感がした。



「では次に、設計図の技術的な特徴について確認します。マティアスの師匠オスカー氏の設計には、独特の歯車の組み方——」



「…異議あり」



ヴァルト男爵の代理人が立ち上がった。



「技術的な特徴の鑑定は専門家に委ねるべきです。弁護人は時計の専門家ではないでしょう?」



審判官が頷いた。



「ええ、認めます。技術鑑定は後日、連邦指定の鑑定士に依頼します。本日は証言と書類に基づいて審理を進めます」



鑑定に回された。


これは予想していなかった。こちらの国では、証拠はその場で確認できた。ハーゲン卿がすぐに秤を持ってこさせてくれた。


でもここでは、手続きが違う。

鑑定は後日で、結果は今出ない。


つまり、今日この場で技術的な矛盾を突くことができない。



残された武器は証言だけ。



「マティアスさん。あなたがヴァルト男爵の工房を訪れた日のことを教えてください」



マティアスが震える声で話し始めた。

師匠に言われて部品を届けに行っただけだと。書庫には入っていないと。



でも、陪審の反応が鈍い。


五人の市民陪審が、マティアスの話を聞きながら、ちらちらとヴァルト男爵を見ている。


男爵は腕を組んで、余裕の表情で座っている。その堂々とした態度が、陪審に「この人は嘘をつかない」と思わせている。



対してマティアスは震えている。声が小さい。目が泳いでいる。

嘘をついていないのに、嘘をついているように見える。



……まずい。



「審判官。一つ確認させてください。マティアスが工房を訪れた日の入退記録は残っていますか?」



「提出されていません」



「ヴァルト男爵。工房には入退記録はないのですか」



「ある。だが、該当日の記録は紛失したと報告がある」



「……紛失ですか?」



「古い記録は定期的に処分しているからな。残っていなかっただけだろう」



都合よく紛失…。


でも、それを指摘しただけでは陪審は動かない。

「処分するのは普通のことだ」と思われて終わりだ。



証拠がない。技術鑑定は後日。入退記録は紛失。


手元にあるのは、マティアスの証言と、師匠の帳簿だけ。


帳簿の日付より公証人の印の方が信頼される。

この国では、そういう仕組みだ。



判決の時間が来た。



審判官三人が協議し、陪審五人が投票した。


結果が読み上げられる。



「被告人、マティアス・ベルガーを有罪とする」




法廷が静かにざわめいた。


マティアスが膝から崩れた。



「そ、そんな……私は盗んでない……」



その声が、法廷の高い天井に吸い込まれていった。




外に出た。


空が白い。エルベルトの空は、こちらの国より白っぽい。日差しが強くて風はカラッとしている。



……負けた。

初めて、負けた。



五回の法廷で一度も負けなかった。

証拠を揃えて、論理で矛盾を突いて、毎回勝ってきた。


でも今日、負けた。



論理は正しかった。日付の矛盾も指摘した。帳簿も出した。


でも、陪審は動かなかった。



「確かに矛盾しているが、公証人の印がある方が信頼できる」


それが、この国の常識だった。



……正しいことを言っても、空気を変えられなければ意味がない。


それを、今日初めて思い知った。




宿に戻った。


部屋に入って、ベッドに座った。

手が震えている。膝の上で拳を握った。




フィーネが隣に座った。何も言わなかった。


しばらく、二人で黙っていた。



「……お嬢様」



「うん」



「お茶、淹れますね」



フィーネが立ち上がって、宿のハーブティーを淹れてくれた。


暖かい湯気がもくもくと立っている。


「……裁判…負けちゃった」



「…」



「私…この国では無力なのね…何もできなくって」



「はい」



フィーネはそれ以上何も言わなかった。慰めも、励ましもしなかった。

ただ隣にいて、同じお茶を飲んでいた。



しばらくして、フィーネが小さく言った。



「お嬢様。この国には控訴という制度があるそうです」



「……控訴?」



「一度の判決で終わりじゃないんです。もう一度、判決に意義があるときにやり直せるという制度です」



もう一度、やり直せる。



一度負けても、終わりじゃない。


それは……今まで知らなかった仕組みだ。この国の法廷にだけある、二回目のチャンスだ。



「……フィーネ」



「はい」



「明日、カスパルさんに会いに行く。控訴の手続きを教えてもらうわ」



「はい、もちろん私もお供します」


「ありがとう……まだ終わってないわ、ここからよ」



リーゼロッテは赤くなった目をぬぐって、宿から出ていった。


【続く】


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