第八話「国境を越える弁護人」
公聴会が終わって、三日が経った。
王都は少しだけ変わった。
弁護人の義務化が正式に承認され、ハーゲン卿の名前で全国に通達が出された。
断罪裁判には必ず弁護人をつけること、被告人が自力で用意できない場合は、国が指名すること。
二百年続いた制度が、たった三日で書き換わった。
……いや、三日じゃない。
あの最初の裁判からずっと、少しずつ積み上げてきたものが、やっと形になっただけだ。
「お嬢様、お手紙です」
フィーネが銀のトレイに載せた封筒を持ってきた。
手紙に書いてある差出人はライナ・ヘルツォーク。
公聴会の夜にゲッツ宰相を追って姿を消した、あの外交官だ。
私は封を切った。
手紙の内容は短かった。
『リーゼロッテ様。ゲッツはエルベルト連邦に入国しました。連邦では亡命貴族として保護を申請し、すでに有力貴族の後ろ盾を得ています。彼はこちらでも同じことを始めようとしています。連邦の法制度をご説明したいことがあります。どうか一度、こちらにお越しいただけませんか。——ライナ・ヘルツォーク』
読み終えて、手紙をテーブルに置いた。
…自分の指先がわずかに震えている。
同じこと。
ゲッツはまた、法律を使って人を消そうとしている。
それが場所が変わっただけで、やり方は同じだ。
「……お嬢様。顔色が…」
「大丈夫、……大丈夫よ」
大丈夫じゃないときに大丈夫って言う癖、いい加減やめたいな…
翌日、ハーゲン卿に相談した。
ハーゲン卿は執務室の椅子に深く座って、眉間の皺を深くした。
「エルベルト連邦……か。あの国の法制度は我が国と大きく異なる。合議法廷と呼ばれる制度で、審判官三人と市民陪審五人の合議で判決を出す。弁護人も許可制で、外国人には原則認められない」
「み、認められない……」
「ただし、臨時許可という例外がある。連邦の弁護士の推薦があれば、外国人でも法廷に立てる場合がある……らしい。詳しくはライナ殿に確認してほしい」
ハーゲン卿は窓の外に目を向けた。
「正直に言えば、行ってほしくはない。あなたはこの国でまだやるべきことがある。弁護人の育成制度はこれからだし、私一人では手が足りん」
「……」
「だが」
ハーゲン卿がこちらを見た。
この人が「だが」と言うときは、もう心を決めている。
「ゲッツを放置すれば、あの男は連邦で新しい影の法官を作る。名簿に載っている人間は我が国だけではないはずだ。……根を断つなら、今しかない」
「ハーゲン卿は、どうされるのですか?」
「国内は私が見る。フェルディナントも育ってきた。あの若者は弁護の筋がいい。……もうあなたがいなくても、この国は大丈夫だろう」
私がいなくても大丈夫。
その言葉が、少しだけ嬉しかったけれど…寂しかった。
大丈夫だと言われて寂しいのは変な話だけど、「あなたがいなくても」と言われると、ちょっと胸がきゅっとする。
「……わかりました。行きます」
ハーゲン卿が頷いた。
厳しい顔のまま、でも口元がほんの少し緩んだ。
「あなたの弁護人としての腕は、この国で一番だと思っている。それが通じない場所に行くのは、きっと険しい道になるんだろう。……でも、だから行く価値がある」
フェルディナントにも伝えた。
彼は分厚い法学書の草稿を抱えたまま、少し困った顔をした。
「えっ……リーゼロッテ様がいない間、僕が弁護の相談を受けるんですか」
「フェルディナントなら大丈夫です。もう十分、一人でやれる力がある」
「……ハーゲン卿と同じこと言ってますね」
「同じことを思っているからでしょうね」
フェルディナントは照れくさそうに草稿に目を落とした。
それから、思い出したように顔を上げた。
「あの……連邦の法制度について、審判官の書庫にいくつか文献があったはずです。まとめておきますので、出発までに渡します」
「……ありがとう」
この人はいつもそうだ。頼む前に動いてくれる…優秀な人だ。
エルミナ様に会いに行ったのは、出発の前日だった。
聖女の居室は相変わらず花の匂いがする。今日はラベンダーの香りだ。
「……エルベルト連邦に、行くんですね」
エルミナ様は紅茶のカップを両手で包んだまま、少し俯いた。
「はい。ゲッツがまた同じことを始めようとしているみたいで」
「リーゼロッテ様なら、きっと大丈夫です」
「……大丈夫かな」
「大丈夫です。だってあの人は…いつも立ち上がる人じゃないですか」
……それは褒め言葉なのか、心配されているのか。
「私は教会の改革をここで進めます。ヴェルナーが失脚した後、教会内の派閥がまだ揉めていて……聖女の立場からできることがあるんです」
「エルミナ様も、ずいぶん強くなりましたね」
「リーゼロッテ様のおかげです」
「……それはお互い様です」
エルミナ様が笑った。
あの最初の裁判の日、傍聴席で泣いていた聖女はもういない。
今は自分の足で教会に立って、声を上げている人だ。
「手紙、書きます…リーゼロッテ様がさみしくならないように…たくさん書きますから!」
「……ありがとう」
「あと、新しい紅茶も見つけたら送ります!エルベルトのお茶って苦いって聞くから…口直し用に」
「エ、エルベルトのお茶は…苦いんですか」
「苦いらしいですよ。体にはいいらしいんですけど…薬草のお茶ばっかりだって」
……苦いお茶か、ちょっと不安。
出発の朝。
馬車に荷物を積み込んでいると、フィーネが旅装を整えて玄関に立っていた。
「フィーネ。荷造り手伝ってくれてありがとう、あとのことはマルタに——」
「お嬢様…やっぱり…私も行きます!」
「……え」
フィーネの目がまっすぐだった。
「お嬢様一人で行かせるなんて、できません。……それに」
フィーネが少し言い淀んだ。
こういう言い淀み方をするときのフィーネは、本当のことを言おうとしている。
「……私も、見たいものがあるんです。エルベルト連邦に」
「見たいもの」
「はい……あの、まだうまく言えないんですけど、行けばわかると思うんです」
理由はまだ聞けなかった。
でも、フィーネの目が本気だということはわかった。
あの最初の裁判の日、脅されて偽証するしかなかったフィーネ。
そんなあの子が「私も行きます」と自分から言ってきて…
そんなの、止める理由がない。
「……荷物、増やさなきゃね」
「もう詰めてあります」
「……用意いいね」
「お嬢様の答えは予想できますので」
フィーネがにっこり笑った。
…こういうところ、本当にたくましくなったな…。
馬車が王都を出て、三日目の夕方に国境に着いた。
石造りの関所に、二つの国旗が並んで掲げてある。
こちら側の紋章は見慣れた獅子。向こう側は、青い鷲。
関所の兵士に通行証を見せて、手続きを待つ間、馬車の窓から向こう側を眺めた。
道が広い。石畳ではなく、固められた土の道。
街道沿いに見える建物の形が全然違う…屋根が平たくて、壁が白い。
「……全然違う国だ」
今まで法廷に立つときは、少なくとも同じ国の中だった。
同じ言葉が通じて、同じ制度の中で戦えた。
ここからは、全部が違うんだ。
覚悟を決めて私は、並ぶ街並みと澄み渡った空を見ていた。
フィーネが窓の外を見ている。
いつもの穏やかな横顔じゃなかった。
何かを思い出そうとしているような、遠くを見る目。
「フィーネ。大丈夫」
「……はい。あの、お嬢様」
「うん」
「私…実は、ここに来たことがあるんです」
「……え」
「子供の頃。五つか六つの頃だったと思うんですけど……私、エルベルト連邦で生まれたんです。お母さんと一緒に、こっちの国に移ってきました」
フィーネがそっと窓枠に手を置いた。指先が小さく震えている。
「お母さんはあまり話してくれなくて。なぜ引っ越したのかも、よくわからないまま……。でも、この景色は覚えています。白い壁と、平たい屋根と……角を曲がるとパン屋さんがあって、甘い匂いがして」
「……ずっと黙ってたの」
「言うタイミングがなくて……あと、自分でもよくわからなかったんです。懐かしいのか、怖いのか」
フィーネが振り返った。目が少し赤い。
「でも今回、お嬢様がエルベルトに行くって聞いて……行かなきゃって思ったんです。お嬢様のためだけじゃなくて、自分のために」
関所を通過した。
馬車が国境線を越えた瞬間、風の匂いが変わった。
乾いた草と、どこかで焼いているパンの匂い。
フィーネが小さく息を吸った。
「……この匂い、懐かしい」
「覚えてるの?」
「はい。覚えてます」
二人とも、しばらく黙っていた。
馬車の車輪が土の道を転がる音だけが聞こえている。
一時間ほど走ったところで、街道沿いに小さな宿場町が見えてきた。
ライナの手紙に書いてあった、最初の中継地だ。
馬車を降りると、看板が目に入った。
文字が読めない。エルベルト連邦の文字は、こちらの国と形が違う。
曲線が多くて、装飾的で、何が書いてあるのかさっぱりわからない。
文字が読めなかったらまずい…早く勉強しないと。
「あ」
フィーネが看板を見上げて、小さく声を上げた。
「お嬢様、これ。……読めますよ。『旅人の宿、空室あり。夕食つき』って書いてあります!」
「読めるの?」
「……読めますね。自分でもびっくりしてるんですけど。子供の頃に覚えた文字なのかな……お母さんが教えてくれたのかも」
フィーネが少し照れくさそうに笑った。
頼もしい。この旅でフィーネがいてくれて、本当によかった。
「フィーネ。今日からあなたが通訳ね、頼りにしてるわ」
「え、そんな、日常会話がちょっとわかるくらいで……」
「ちょっとわかるだけで十分。私はゼロだから」
「お嬢様のために……がんばります!」
宿に入って、荷物を降ろした。
部屋は二人部屋。清潔だけど、なかなか二人で過ごすには狭い。
窓を開けると、夕日に染まった白い街並みが見えた。
きれいだ。でも、知らない場所だ。
宿の女将さんに夕食をお願いして、待っている間にフィーネがお茶を淹れてくれた。
持ってきた紅茶ではなく、宿にあったハーブティーだ。
「エルベルトのお茶、試してみましょうか」
「そうね、試してみましょう」
そう言って一口飲んだ。
「……に、苦い」
「これは苦いですね」
「エルミナ様の言った通りだ…」
「でも……後味は悪くないです。ちょっと、すっとする感じで、これはこれでいいかも…」
確かに、飲んだ後に喉の奥がすうっとする。
苦いけど、嫌いじゃないかもしれない。
「慣れますかね?」
「……慣れなきゃいけないわね。しばらくはここにいるんだから」
そんな話をしながら、運ばれてきた夕食を食べて、ベッドに横になった。
天井が低い。壁が白い。
窓の外から聞こえるのは、知らない人の声。
何もかもが違う。
同じ言葉が通じない。同じ制度がない。
これまで五回の法廷で積み上げてきた経験が、ここでは通用しないかもしれない。
……怖い。正直に言えば、怖い。
ハーゲン卿が「きっと苦しい」と言った意味が、もうわかり始めている。
でも…。
隣のベッドからフィーネの寝息が聞こえる。穏やかな呼吸。
この子は、この国で生まれたんだ。
ここがフィーネの故郷で、フィーネにとっては帰ってきた場所で。
私にとっては知らない国でも、フィーネにとっては違う。
一人じゃない。
それだけで、少しだけ大丈夫な気がした。
明日はライナに会う。
エルベルト連邦の法制度を聞く。ゲッツが何をしているか確認する。
そしてたぶん、また戦うことになる。
今度は論理だけじゃ足りないかもしれない。
それでも行く。
私はこの世界を変えるって決めたから。
窓の外で、風が白い壁を撫でている。
パンの匂いはもうしない。代わりに、乾いた草の匂い。
泣かなかった。
でも、苦いお茶の味は、少しだけ好きになれた気がする。
つづく




