第七話 法は誰のためにある
ep07「法は誰のためにある」
最後の法廷に立つ。
今日参加するのは裁判ではなく、公聴会だ。
公聴会、それは断罪裁判制度の改革案を、国王陛下に直接上申する場だ。
この数ヶ月で起きたことを全部まとめて、一つの提案にする。
弁護人がいない裁判、証拠を事前に見せない制度、虚偽告発に罰がない仕組み。
告発者に有利な歪んだ制度。
それを全部変える、今日で。
ハーゲン卿と一緒に準備した改革案は三つの柱からなる。
一つは弁護人の必須化。国民誰もが弁護を受ける権利を持つ。
二つ、証拠の事前開示義務。告発者は事前に証拠を被告側に開示することを必須とする。
三つ、虚偽告発への処罰規定。これは前回の裁判で暫定的に制定したけれど、今日正式に法制化する。
私はエルミナ様の力を借りて、もう一つの準備もしていた。
それはエルミナ様が教会の古い記録庫で見つけてくれた文書。
そう、約五十年前の冤罪事件の記録。
公式の裁判記録からはなぜか消されていた、幻の事件だ。
これが今日の切り札になる。
公聴会の広間は、いつもの裁判のときより広い場所が使われていた。
国王陛下が正面の玉座に座っている。
初めてお会いした。思ったより穏やかな目をしている。
左右には審判官が座っている。
ハーゲン卿とフェルディナントの姿がある。
傍聴席には貴族たち、商人たち、そして一般の市民まで。
この公聴会は公開されていて、誰でも傍聴できるのだ。
そして、反対派の代表が正面に立った。
そう、その代表は宰相ゲッツ・フォン・アイゼンベルク。
あの穏やかな笑みの男性…ついに名前を知ることができた。
始まりの裁判の傍聴席にいた男、ディートリヒ殿下に耳打ちした男。
クラウス男爵の独房を訪れた男、ヴェルト伯爵に身代わりを命じた男、改革文書を握りつぶした男…。
この数ヶ月、私の知らない場所で糸を引き続けてきた人物が、今日初めて私の正面に立っている。
いつもの穏やかな笑顔のまま、ゲッツ宰相は立ち上がった。
「…二百年の歴史を持つ断罪裁判を、たった数ヶ月の経験で変えようとは。いささか傲慢ではないでしょうか?」
声に棘はなく、むしろ柔らかくきこえる。
だからこそ怖い。この人の武器は、この説得力のある穏やかさなのだろう。
しかし、その穏やかに見える裏面になにが隠れているのか…私にはまだわからない。
「それでは、この記録を御覧ください。過去二百年、断罪裁判において無実の者が罰された記録は、一件もございません」
そう言うと、分厚い帳簿が審判官席に積まれていく。
「完璧な記録」
二百年分の裁判結果だ。全件有罪判決が出ていて、冤罪ゼロのようだ。
一見すると、反論の余地がないように見える。
傍聴席がざわめく。
「確かに実績があるなら変える必要はないのでは」という雰囲気が広がりかけている。
でも、私は知っている。完璧な記録ほど疑うべきだ、と。
「ゲッツ宰相。この記録の分類基準を教えてください」
「分類……有罪と無罪です」
「では、"処刑後に無実が判明した事案"は、どちらに分類されていますか?」
ゲッツの笑顔が、一瞬だけ固まった。
本当に一瞬。でも私は見逃さなかった。
「……処刑後の事案は"確定済み"として別帳簿に…」
「別帳簿。つまり、この二百年の記録には含まれていない、ということですね」
ゲッツは何も答えない。
ここだ。
私は一枚の紙を掲げた。
エルミナ様が教会の古い記録庫から見つけてくれた文書。
「五十年前。パウラ・ベッカーという平民の女性が、貴族への呪詛の罪で断罪裁判にかけられました。彼女の弁護人はいませんでした。結果は有罪…その後処刑されました」
広間がしーんと静まった。
「処刑の翌年、真犯人が別件で逮捕され、この事件についても自白しました。パウラ・ベッカーは無実だった。……この記録は宰相の帳簿にはありません。"確定済み"として除外されているからです」
「二百年間冤罪がゼロなのではありません。冤罪を記録から消してきただけなのでは?」
また、広間が大きくどよめいた。
ゲッツの穏やかな笑顔は消え、初めて見る素の表情になった。
でもそれも一瞬で、すぐにまた穏やかな笑みに戻った。
この人の制御力は本物なのだろう。
「……一件の例外を以て、二百年の制度を否定するのでしょうか」
「一件ではありません。一件だけが見つかったのです。別帳簿を公開していただければ、他にも出てくるのではないですか?」
ゲッツは、また何も答えない。
国王陛下が口を開いた。
「宰相。別帳簿を提出してもらえるかね」
ゲッツの目が動いた。きっと脳内で色々計算しているのだろう。
この場で別帳簿を出せば、何が書いてあるかは、ゲッツ本人が一番よく知っている。
きっとその中身は、何十年分の冤罪リストだったり、没収された領地の配分先などだろう。
領地なども、すべてゲッツの派閥で囲っていたのだろうか。
「……陛下。別帳簿は宰相府の書庫にございます。少し時間をいただければ」
「時間は十分にあった。半年以上、調査委員会を遅延させたのは…はて、誰だったかね?」
国王陛下の声は静かだったが、広間の空気がピリピリしたものに変わった。
国王自身は元々気づいていらっしゃったのだ。
この調査妨害の背後にゲッツがいることを。
ゲッツの笑顔が、またほんの少しだけ歪んだ。
私は最後の弁論に入った。
「この裁判制度では、おかしいと思っても声を上げられなかった。声を上げた人間は潰された。正しいことを言っても、仕組みが間違っていたら正しさは届かない」
広間が静まっている。
「この数ヶ月、私は何度も法廷に立ちました。最初は自分のために。次は知らない商人の娘のために。その次は友人のために…そして王太子のために」
エルミナ様が頷いている。フィーネが泣いている。
「でも、私がいなかったら。弁護人が一人もいなかったら。レーナは有罪になっていた。エルミナ様は偽物の聖女にされていた。パウラ・ベッカーは…五十年前に死んだまま、誰にも覚えられていなかった」
「法は、権力者が民を裁くためにあるのではありません。声を上げられない人間が、それでも声を上げられるようにするために、あるのだと。……私はそう信じています」
今まで心の中で隠していた、ため込んでいた言葉。
今日は何百もの人が、私の声を聞いている。
国王陛下が立ち上がった。
「…改革案の三本柱は、私の権限によって全て承認する」
広間に拍手が起きた。
「そして、ハーゲン卿を新制度の運用責任者に任命することも決定する。宰相には別帳簿の提出を…」
そこで、ゲッツ宰相の席を見た時…国王は言葉を止めた。
そう、ゲッツ宰相がいた場所には誰もいなく、もぬけの空だった。
「フェルディナント。ゲッツ宰相はどこに行った?」
「……わ、わかりません、」
きっと休憩時間だろう。ゲッツは公聴会の休憩を利用して姿を消したのか。
私が弁論をしている間に、独りでひっそりと逃げた。
「まだ公聴会は終わっていない、ゲッツ宰相をすぐに探せ!」
ハーゲン卿は騎士にそう命令し、騎士たちは急いでこの広間から出ていった。
その後、騎士たちはすぐに戻ってきた。
ゲッツの執務室はもぬけの殻だったそうだ。
書類は持ち出されていて、部屋の金庫は扉が開いたままで中は空っぽ。
偽造旅券が一枚、引き出しに残されていた。きっとこの旅券はダミーか予備で、本人は旅券を偽装してどこかへ逃亡したのだろう。
きっとゲッツは、最初から逃亡の準備をしていた。
裁判で負ける可能性も計算に入れて、いつでも消えられるようにしていた。
でも、そんな完璧に見えたゲッツが持ち出しそこねたものが一つだけあった。
それは暖炉で燃やしかけた帳簿の残骸。
火がつく前に騎士が踏み込んだおかげで、なんとか半分だけが残っていた。
その燃えかけの帳簿には、三十年分の名前が並んでいた。
断罪裁判で有罪にされ、領地を没収された人々の名前。
その横に、没収後の領地の配分先。
……その配分先の人間たちは全部、ゲッツの派閥だった。
三十年間、ゲッツはこの制度を使って政敵を消し、領地を奪い、自分の権力を膨らませてきた。
制度を守ろうとしたのは伝統のためじゃない。
自分の三十年分の犯罪が裁かれることが怖かったから。
そこには、「パウラ・ベッカー」の名前もあった。
五十年前の冤罪事件。あれもゲッツの一族が仕組んでいたのだった。
「…リーゼロッテ様」
エルミナ様が私の隣に立った。
「ゲッツ宰相は……最初から、全部知っていたんですね」
「知っていたどころじゃない。……あの人が、この制度を歪めた張本人だったの」
部屋をあさっていると、小さな引き出しの奥からもう一つ封書が見つかった。
その封書を見た瞬間、驚きが隠せなかった。
そう、その封書の表に書かれていた宛先は、私だったのだ。
私は、恐る恐る封を開けた。
「お嬢さん、お見事でした。ですが、せいぜい一つの法廷を変えただけですよ。
この国を動かしているのは、法律ではありません。あなたがまだ名前も知らない人々が、あなたが想像もしない場所で、この国の本当の形を決めています。この法廷の中で遊んでいるうちは、どうぞご自由に… ゲッツ・フォン・アイゼンベルク」
その手紙を読み終えた手は、震えていた。
この震えは怒りではない。恐怖からでもない。
ゲッツという人間は、負けを認めてさえこんな手紙を残す。
最後に私の想像力に傷を入れて去っていく。
ゲッツの言葉が嘘だとも嘘じゃないとも言い切れないことが、一番厄介だ。
皆が捜査して、わかった最後の目撃情報は、東の国境を馬車で越えた…とまでしかわからなかった。
隣国のエルベルト連邦。
あの国に逃げたのだとしたら、もう私たちの手は届かない。
ゲッツが持ち出した「影の法官の名簿」はまだ回収されていない。
あの人はまだ切り札を持っている。
ディートリヒ殿下が、廃嫡の知らせを受けた独房でゲッツの逃亡を知った。
これはハーゲン卿から聞いた話だ。
「……あの人は。最初から、俺のためなんかじゃ…」
ディートリヒの目から、初めて本物の涙がこぼれたという。
私はそれを聞いて、少しだけ思った。
この人も、利用されていたのかもしれない。
第二王子に勝てない焦り。そこにゲッツが入り込んだ。
操られたとまでは言わないが、弱さにつけ込まれた。
でも、それで罪がなくなるわけじゃない。
弱いからといって人を傷つけていい理由にはならない。
……それでも、あの涙は演技じゃなかった気がする。
「リーゼロッテ様」
公聴会の後、傍聴席にいた異国風の女性が声をかけてきた。
三十代くらい。切れ長の目に、知的な顔立ち。見る限り、この国の服装ではない。
「お初にお目にかかります。私はエルベルト連邦外交官、ライナ・ヘルツォークです」
礼儀正しい挨拶の後、名刺を差し出された。
「エルベルト連邦にも……あなたの力を必要としている人がいます」
ゲッツの逃亡先と同じ国…これは偶然なのだろうか。
「……ありがとうございます、覚えておきますわ」
外交官ライナは微笑んで去っていった。
フェルディナントが公聴会の後に私のもとに現れた。
「リーゼロッテ様良ければなのですが…あなたの弁論を本にまとめたいのです」
「本……ですか?」
「ええ、この国には法律の教科書がないんです。あなたがやったこと…そう、証拠の矛盾を見つけ、嘘を論理で崩し、無実の人を守る方法を体系化して、誰でも学べるようにしたい」
「……それは崇高な志ですね」
「崇高じゃなくて、必要なんです」
フェルディナントの目は真剣だった。
本を書く…そんなこと考えたこともなかったけれど。
「……前向きに考えておきますね」
「期待しています」
一週間後。公爵家の庭。
エルミナ様と、フィーネと、三人でお茶を飲んでいた。
「リーゼロッテ様。もう…泣いてもいいんですよ」
エルミナ様が言った。
「……え?」
「裁判のとき、ずっと泣かなかったでしょう。もう終わったんです。泣いてもいいんですよ」
フィーネが紅茶のカップを置いた。
「お嬢様。私が先に泣いてもいいですか」
「……ずるいよ、フィーネ」
三人で泣いた。
泣いても、隣に笑ってくれる人がいる。
声を上げても、一緒に上げてくれる人がいる。
断罪裁判の元被告人と、聖女と、元偽証させられた侍女。
変な組み合わせだけど——悪くない。
全然、悪くない。
すこしだけ冷めてしまった紅茶でも、三人で飲むと美味しかった。
「ところで…」
エルミナ様が紅茶のカップを両手で包みながら言った。
「ディートリヒ殿下って……ゲッツ宰相に操られていたのかもしれませんね」
「……うん。六ヶ月前にゲッツが接近した時期と、殿下が変わった時期が一致する。偶然かな」
「偶然じゃないと思います。これは聖女の直感です!」
「また直感って……」
「ふふん、便利でしょう?」
「当たったこともないのに…?」
「そ、そんなことないです!これから…当たるんですよ!」
そんな冗談を言いながら二人で笑った。傍で聞いていたフィーネも笑った。
ゲッツは逃げた。影の法官の名簿を持って。
この国の裏側には、私がまだ知らない何かがある。
法廷の外で、名前も知らない人々が、この国の形を決めている。
でも、今日は一旦いい、この瞬間だけでも。
今日は泣けた。お茶が美味しい。隣に友達がいる。
前世では手に入らなかった全部がここにある。
明日からまた考えよう。
逃げた宰相のこと、影の法官のこと、エルベルト連邦のこと。
フェルディナントの教科書のこと。
でも今日は…ゆっくり紅茶を飲もう。
いつもは泣くのを我慢していた。でも、今日だけは泣いた。だって、もう泣いていい場所にいるから。
断罪裁判の元被告人で、弁護人で、たぶん少しだけ、この国を変えた人。
変な肩書きだけど。
悪くない。全然、悪くない。
ポケットの中に、あの名刺がまだ入っている。
エルベルト連邦外交官、ライナ・ヘルツォーク。
ゲッツが逃げた先の国、私の力を必要としている人がいると言った、あの国。
……ふと、フィーネの顔を見た。
フィーネはお茶を飲みながら、東の空をじっと見つめていた。
いつもの穏やかな横顔ではなく、何かを思い出そうとしているような、遠い目をしていた。
「フィーネ?」
「……あ、いえ。なんでもないです!すこし…ぼーっとしていて。」
なんでもないと言う時のフィーネは、大抵なんでもなくない。
でも今は聞かないでおこう。
ゲッツの手紙の最後の一文が、まだ頭の隅に残っている。
「法廷の中で遊んでいるうちは、どうぞご自由に」
……次の法廷は、この国の中にあるとは限らないのだろうか…。
【つづく】




