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第十話 もう一度、法廷に

控訴の手続きは、思ったより複雑だった。



カスパルの事務所は、連邦の法務街にある石造りの建物の二階だった。

壁一面に法律書が並んでいて、机の上には書類の山。


几帳面な人なのか散らかす人なのか、よくわからない部屋だ。



「控訴には新しい証拠か、手続き上の瑕疵が必要です。同じ証拠で同じ主張をしても、結果は変わらないですから」



カスパルが眼鏡を直しながら言った。

声は冷たいけど、わざわざ説明してくれている時点で、完全に見捨てたわけではないらしい。



「新しい証拠……」



「前回、技術鑑定を後日に回されたでしょう。あれは手続き上は正当ですが、実質的にはあなたの戦力を削るための手だった。ヴァルト男爵の代理人はよく知っている。鑑定を先延ばしにすれば、弁護側は証言だけで戦うしかなくなる」



「……意図的に先延ばしにした、ということですか?」



「この国ではよくある手です。制度を知っている人間が、制度の隙間を使って勝つ。……あなたの国のゲッツ宰相と同じですよ」



カスパルがこちらを見た。

皮肉ではなく、事実として言っているようだ。



「控訴で勝つには、陪審の心を動かす必要がある。前回あなたがやったような論理の積み上げでは、連邦の陪審は動かない」



「わかっています。でも、どうすればよいのでしょうか」



「物語です」



「物語?」



「証拠は土台です。でも判決を動かすのは物語だ。陪審は法律の専門家じゃない。街のパン屋であり、仕立て屋であり、農家です。彼らが理解できるのは、証拠の論理もありますが、そこまでの人の物語です」



物語。


証拠を並べるだけじゃなく、マティアスという人間の物語を語ること。師匠との関係、職人としての誇り、なぜ盗みなどするはずがないのかを、陪審の一人一人に「わかる」と思わせること。



「……カスパルさん。一つ聞いていいですか?」



「なんです」



「あなたはなぜ、私にこう、親切に教えてくれるんですか?あの時は、外国人に口を出されたくないと言っていたのに…」



カスパルの眉がぴくりと動いた。



「……マティアスの事件は知っていました。師匠のオスカー氏の設計が盗まれたことも。でも僕にはヴァルト男爵を敵に回す覚悟が、なかった」



カスパルの声が、少しだけ小さくなった。



「でもあなたにはその覚悟があったようです。先ほどの裁判で実感しました……悔しいですが、僕にはできなかったことです」



「……」



「だから、次は勝ってください、マティアスの為にも…この国のためにも」




新しい証拠を探すために、フィーネと職人街に向かった。


エルベルトの職人街は、王都の商業区画とは雰囲気が全然違う。


道が狭くて、建物の壁に工具の看板がぶら下がっている。

金属を叩く音があちこちから聞こえて、空気に油と鉄の匂いが混ざっていた。



「お嬢様。この辺り、私子供の頃に来たことがある気がします」



フィーネが立ち止まった。角を曲がった先を見ている。



「この角を曲がると……あ、やっぱり!パン屋さんがあります、昔お母さんとよく買いに来てたんです」



そうフィーネが指さす先には、小さなパン屋があった。

窓から甘い匂いが漏れていて、自然とおなかが空いてきた。


フィーネは嬉しそうな顔をしていた。



「パン屋さん、行ってみる?」



「え、いいんですか」



「良い匂いで、お腹が空いてきたの。お茶の時間にしましょう!ついでに、この辺りのことを聞けるかもしれないし」



パン屋のおばさんは、フィーネの顔を見て首を傾げた。


フィーネがエルベルトの言葉で話しかけている。

内容はわからないが、何か話しているようだ。



おばさんの顔がぱっと明るくなって、フィーネが驚いて笑った。



「お嬢様……この方、私のこと覚えてるって。小さい女の子がお母さんと一緒にパンを買いに来てた、あの子でしょうって」



「覚えてるの?それって…かなり前の話よね?」



「毎週来てたので…いつも同じアーモンドパンを買ってたんです」



フィーネの目から涙がこぼれた。

懐かしくなったのだろう。



「……すみません。ちょっとびっくりしちゃって」


「いいのよ、これで顔を拭きなさい」


私はポケットからハンカチを取り出して、フィーネに手渡した。


「あ、ありがとうございます…すみません」


「じゃあ、パン屋のおば様にオスカー老師のことと、この職人街の話を聞いてくれる?」



フィーネはパン屋のおばさんと会話した後、それを要約して伝えてくれた。



オスカー老師、マティアスの師匠。


この街で一番腕のいい時計職人だったが、三年前に引退して、今は街の外れに住んでいる。


そして、そのオスカー老師のもとに、実はもう一人の弟子がいるという。



「ヨハン。オスカー師匠の最初の弟子で、今は別の工房で働いている。設計図の原本を預かっているはず……だと、このおばさんは言っています」



原本。

ヴァルト男爵が提出したのはあくまで「控え」で、公証人の印がある。


でも、師匠のオスカーが描いた原本があれば、描き手の筆跡、紙の質、インクの古さで、どちらが先に描かれたかがわかるかもしれない。



「ヨハンさんに会えないの?」



パン屋のおばさんが何か言った。そのままフィーネが訳す。



「今日はもういないだろうけれど、明日の朝、この角を右に曲がった先の工房にいるはずだって言っています!」



「ありがとう、有益な情報ね、明日出直しましょう。今日はパンをたくさん買って帰りましょうか」


「はい、お嬢様!荷物は私が持ちますから、たくさん買っていきましょう!ここのアーモンドパン、すごくおいしいんですよ!」





翌朝、ヨハンの工房を訪ねた。


三十代の、がっしりした体つきの男。

手が大きくて、指先に細かい傷がたくさんある。



フィーネが事情を説明した。


ヨハンは腕を組んで聞いていた。表情が硬い。



フィーネが訳してくれた。



「原本は持っている。でも、ヴァルト男爵を敵に回したくない。申し訳ないが、証人に立つのは無理だ、と」



「……そうですか」


「この街で仕事をしている以上、男爵に睨まれたら終わりらしいです……」



わかる。カスパルと同じだ。

正しいことを知っていても、声を上げられない。


「この街で生きる上で仕方のないことなのでしょう、それを責めることはできないわ。何か別の方法を考えましょう」



「お嬢様……私がやってみます」


そう言うと、フィーネがもう一度、ヨハンに何か話しだした。



「……あの、私。昔、嘘をつかされたことがあるんです」


ヨハンがフィーネを見た。



「怖い人に脅されて、嘘の証言をしました。本当のことを言いたかったのに、言えなかった。……あの時、誰かが隣にいてくれたら、本当のことを言えたと思うんです。ヨハンさんが怖いのはわかります。でも、法廷では私たちが隣にいます。お嬢様は必ずこの裁判に勝ちます。一人じゃないです」



長い沈黙があった。

工房の奥で、時計の針が小さく音を刻んでいる。



ヨハンが、ゆっくり口を開いた。


「……原本を持ってこよう。明日までに準備する」



「あ、ありがとうございます!」


フィーネの表情がパーッと明るくなった。

何かを話していた様だった。


「お嬢様!ヨハンさん、原本を持ってきてくださるようです、説得できました!」


「本当に!?お手柄だわ、フィーネ!」


「えへへ……ありがとうございます!お嬢様が頑張ってるんだから私にも何かできることが…って思って…」



「フィーネ……ありがとう、成長したわね」


最初の裁判の時とはまるでフィーネは変わっていた。


(成長、したんだな…私も頑張らないと)





そして迎えた、控訴法廷の日。



同じ半円形の法廷。同じ三人の審判官。


でも、陪審は前回と入れ替わっている。

控訴では陪審を再選するのが連邦のルールだ。



マティアスが被告席にいる。


「もう一度やれる」と伝えた時、彼は泣いていた。


泣いた後、「今度は、負けたくない」と話してくれた。

彼のためにも、この裁判に勝たねばならない。


カスパルは傍聴席でこちらを見ていた。

腕を組んで、厳しい顔で。でも、来てくれた。



控訴が始まる。



「弁護人。新しい証拠はありますか」



「はい。新しい証拠は二点あります。一点目はヨハンが持ってきた設計図の原本です」



これはオスカー師匠の署名入り。

紙はヴァルト男爵の控えより古く、インクも褪せている。日付は三年前になっている。



「この原本は、オスカー氏の弟子であるヨハン氏が師匠から直接預かったものです。この設計図の日付は三年前のものになっています。この日付と紙の経年劣化と、インクの褪色具合から、ヴァルト男爵の控えより先に描かれたことは明白です」



ヴァルト男爵の代理人が立ち上がった。



「紙の古さなど、保管状態で変わる。日付も後からどうだってできるだろう、そんな物証拠にはならない」


「ええ、では、二点目も確認してください」



二点目。設計図の技術鑑定。


前回後日に回された鑑定の結果が、ようやく届いていた。カスパルが手配してくれた独立の鑑定士の報告書。



「連邦指定鑑定士の報告書です。設計図の歯車配列に、オスカー師匠独自の特徴が確認されました。この技法はオスカー氏が独自に開発したもので、彼の弟子以外に知る者はいません。ヴァルト男爵の控えにも同じ特徴があります。……つまり、元の設計者はオスカー氏です」



法廷がざわめいた。



でも、まだ足りない。前回と同じように、証拠だけ並べても陪審は動かないかもしれない。


ここからが、カスパルに教わったこと。



「……審判官。一つだけ、お話しさせてください」



審判官が頷いた。



「マティアスは十五歳の時に、オスカー師匠のもとに弟子入りしました。八年間、毎朝五時に工房に入り、師匠の横で歯車を削り、ばねを巻き、時計の音を聞いてきました」



マティアスを見た。彼の荒れた手を。



「師匠の設計図は、マティアスにとって教科書です。盗むものではありません。学ぶものです。……彼はその設計図を暗記しています。目を閉じても描けます。盗む必要がない。なぜなら最初から、自分の中にあるものだからです」



陪審の一人が、マティアスの手を見た。


職人の手。毎日八時間、歯車を削ってきた手。



「マティアスの師匠は、弟子に技術を渡しました。それは盗みではありません。継承です。設計図を盗んだのは、その継承を横取りしようとした人間の方なのではないでしょうか?」



法廷が静まった。


陪審の目が変わった。前回とは違う。

今度は、ヴァルト男爵ではなくマティアスを見ている。



ヴァルト男爵が初めて姿勢を崩した。椅子の背にもたれて、腕を組み直している。余裕が消えた。



「ふむ…弁護人が言っていることは筋が通っている。証拠の方も確認できた、証拠も確認する限り偽物でもないことが確認できた。では、判決に移ろう」



「…被告人マティアス・ベルガー。控訴審において、六対二で無罪とする」



「良かった、無罪だ!」


マティアスは泣いていた。

今度は嬉し涙だった。



「よかったな、マティアス」


ヨハンがマティアス肩を叩きながらそう一言言うと、すぐに去っていった。




法廷を出ると、カスパルが壁に寄りかかって待っていた。


腕を組んだまま、こちらを見ている。



「……悔しいですが、あの弁論は良いものでした」



「ありがとうございます」



「特に最後の『継承』のくだり。あれは証拠ではなく物語だ。陪審の心を動かしたのはあそこだったでしょうね」



「ありがとうございます、でもカスパルさんが教えてくれたことですから」



「私はただ教えただけです。実行したのはあなただ」


カスパルはそう言うと、遠くを見ながら眼鏡を直した。照れを隠す癖なのかもしれない。



「……それと。ヴァルト男爵の代理人に法律顧問料を払っていた人物がいたようです。ゲッツ・フォン・アイゼンベルク…あの男が連邦でも同じネットワークを作り始めている」



「やっぱり……」



「マティアスの事件は始まりにすぎません。ゲッツを止めなければ、同じことが繰り返されるでしょう」




宿に戻って、フィーネが淹れてくれたお茶を飲んだ。


「フィーネ」



「はい、お嬢様」



「今日、ヨハンさんを説得できたのは、フィーネのおかげだよ」



「私は……ただ、本当のことを言っただけです」



「それが一番難しいんだよ」



フィーネが少し笑った。照れくさそうに、でも嬉しそうに。



もうこの苦いお茶にも慣れてきた。


今日のお茶請けは甘いアーモンドパン。


悪くない組み合わせだ。


【つづく】


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