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第話十一話 迫る影

マティアスの事件の後、ライナが調べてくれた資料が届いた。

ゲッツ・フォン・アイゼンベルクが連邦で構築しつつあるネットワークの全容。


紙の束を広げて、宿の机の上に並べた。

フィーネとカスパルも一緒に目を通した。



「……ひどいですね、これ」



フィーネが眉をひそめた。



ゲッツは連邦に来てからわずか数ヶ月で、有力貴族五家と顧問契約を結んでいた。


内容は「合議法廷での勝訴率を上げるための法律助言」。

表向きは合法で、連邦の法律には法律顧問の活動を規制する規定がない。


でも実態は違う。


ゲッツは裏で貴族たちに「陪審の選び方」「証人の買い方」「鑑定を遅延させる裏技」を教えている。


法律の隙間を、金で買える武器に変えている。



「これ……マティアスの事件と同じ構造ですね」



カスパルが資料を指さした。



「鑑定の遅延申請、公証人の利用、入退記録の紛失。全部、ゲッツが教えたマニュアル通りだ」



「ヴァルト男爵もゲッツの顧客だった、ということですか?」



「ええ。顧問料は年間で金貨五百枚。……庶民の十年分の稼ぎです」



ライナが静かに付け加えた。



「そしてゲッツは、連邦の法務大臣とも接触しています。大臣の名前が顧問契約リストに載っている」



「法務大臣も関わっていたなんて……」



(……深い)


思ったより、ずっと。



「ゲッツの手口です。まず貴族に恩を売り、次に行政に食い込む。あなたの国でやったことと同じ順番です」



紙を手元に引き寄せた。顧問契約の一覧には、貴族の名前が五人分並んでいる。

そのページには、法務大臣の名前も書かれていた。


(……もう、外から押せない)



ライナが連邦政府に告発を持ちかけてくれた。だが、結果は予想通りだった。



「政府は動けません。ゲッツの顧客には有力貴族が含まれている。彼らを敵に回すリスクを、政府は取れないと」



「……つまり、法廷でも、政治でも、手が出せないということですか?」



「残念ながら、現時点では」



書類を静かに伏せた。


法廷で戦えない相手。どんなに証拠を揃えても、どんなに論理を積み上げても、仕組み自体が壊れていたら届かない。

ゲッツは法律を犯していない、うまく法律の隙間を使っているだけだ。


それが一番、厄介だった。



 


連邦の社交界に、招待状が届いた。


ライナが手配してくれたもので、連邦の外交関係者が集まる夜会だ。



「ゲッツもこの夜会に出席します。……覚悟はいいですか」



「覚悟というか…公聴会の時に実は少し会ったことはあるんです」



「いいえ、あの時は法廷でしたが今度は社交の場です。法廷のルールは通用しません、油断は禁物ですよ」



(……知っている。そういう場所の方が、あの人はきっと得意なんだ)



夜会の会場は、連邦の迎賓館だった。


白い大理石の柱が並ぶ広間。天井にシャンデリアが五つ。蝋燭の光が柔らかくて、壁に影が揺れている。


音楽が流れているが、聞いたことのない曲だった。


こちらの国の夜会とは空気が違う。


もっと開放的で、声が大きくて、笑い声が多い。

でも、その笑い声の裏にある駆け引きは、きっとどこの国でも同じだ。


フィーネが隣にいてくれた。

ドレスを着たフィーネは、いつもの侍女姿とは印象が違う。少し大人びて見える。


(……この子、いつの間に大人になったのかしら)



「お嬢様、あの方です」



フィーネの視線の先。

広間の奥、人の輪の中心に、あの穏やかな笑みの男がいた。


ゲッツ・フォン・アイゼンベルク。


連邦の貴族たちに囲まれて、にこやかに談笑している。

ワイングラスを片手に、まるでこの国に何十年も住んでいるかのような自然さ。


遠くから見ていたにもかかわらず、ゲッツと目が合った。


(……慌てない。普通に立っていればいい)


ゲッツが微笑んで、こちらに歩いてきた。



「おや。リーゼロッテ嬢、お久しぶりですね。まさかここでお会いするとは」



ゲッツは私を見つけると、母国語で話しかけてきた。


穏やかな声。にこやかな表情。

でも目の奥は笑っていない。私はこの人の笑顔の裏を、もう知っている。



「ゲッツ宰相……いえ、今はもう宰相ではありませんでしたね」



「ええ、今はただの一介の法律顧問です。慎ましく暮らしていますよ」



(慎ましく…金貨五百枚の顧問料を取りながらね。)



「法廷遊びは楽しんでいますか?マティアスの件、聞きましたよ。控訴で逆転とは、なかなかやるものだ」



「…遊びではありません」


思わず、顔がこわばってしまった。

危ない危ない、この人の挑発に乗らないようにしないと…。


「ああ、失礼。あなたにとっては真剣なことでしたね。……でも、お嬢さん。一つだけ教えてあげましょう」



ゲッツがワイングラスを傾けた。



「あなたは正しいことをしている。それは認めましょう。でも、正しいだけでは世界は動きません」



「……」


すぐには反論が出てこなかった。



「法は道具です。道具に善悪はない。使い方次第で、人を守ることも、人を消すこともできる。……私は道具を最も効率的に使っているだけですよ」



「効率的に使って、人を踏みつけているだけでしょう」



「踏みつける。……強い言葉ですね。でも、考えてみてください。あなたが五回の法廷で救った人は何人です。私が動かした人の数は、その何十倍ですよ。……どちらが世界を変えているか、わかりますか」



ゲッツの目はただ、まっすぐだった。


嘘を言っている目じゃない。本気でそう信じているように見えた。



法は道具。使い方次第。

それは……否定できない部分がある。法律は確かに道具だ。でも、道具には正しい使い方があるはずだ。



「……ゲッツ宰相。あなたがどれだけの人を動かしたとしても、その中に無実の人を潰した数も入っている。それを効率と呼ぶなら、私はその効率を止めます」



ゲッツは穏やかに笑った。でも、目つきはだんだん冷たくなった。



「お嬢さん。あなたには一つ、足りないものがある。……覚悟です。私は三十年かけてこの仕組みを作った。あなたは三十年かけてそれを壊せるのでしょうか…今から楽しみですね」



返す言葉が出なかった。


三十年。

その重さが、喉に詰まった。


ゲッツが背を向けて、貴族たちの輪に戻っていった。穏やかな笑みのまま。


周りの音楽が、また聞こえてきた。


さっきと同じ曲のはずなのに、少し遠く聞こえる。


(……三十年。私はまだ十八だ)


フィーネが隣に来た。何も言わなかった。ただ、隣にいてくれた。



「……行きましょう」



「はい」



 


宿に戻った。

部屋に入って、ドレスを脱いで、ベッドに座った。



手が震えている。

ゲッツの言葉が頭から離れない。


「正しいだけでは世界は動かない」

「私が動かした人の数は、その何十倍」

「覚悟はありますか」


……三十年。

ゲッツはあの穏やかな笑みの裏で、三十年かけて二つの国の法律を私物化してきた。

私が五回の法廷で救った人なんて、ゲッツが壊した人の数に比べたら……


そう考えていると、涙が出た。


涙は止まらなかった。


悔しいのか、怖いのか、悲しいのか、よくわからない。

ただ、自分が小さく感じた。

ゲッツの前に立った時、自分がすごく小さくて、何もできない子供のように感じた。


(……でも)


泣いている間も、頭の中で考えていた。


(三十年かけて作ったなら、壊すのにも時間がかかる。でも、だからといって、できないとは言っていない)


……正しいことを言っても、仕組みが壊れていたら届かない。

それをまた、思い知らされた。


(思い知らされただけだ。まだ私は諦めない)



ノックの音がした。



「お嬢様。入ってもいいですか」



フィーネの声だ。

私は急いで涙を拭った。



「……うん。入って」



フィーネが入ってきた。私の顔を見て、少し驚いた顔をした。

でも、何も聞かなかった。


隣に座って、しばらく黙っていた。



「……ごめん、ちょっと泣いちゃって」



「泣いてもいいんです、お嬢様には私がついてますから」



「……うん」



「泣いた後に、また考えましょう。お嬢様はいつもそうしてきたじゃないですか」



フィーネが立ち上がって、お茶を淹れに行った。

戻ってきた時、手にはハーブティーではなく、国から持ってきた紅茶のポットがあった。



「今日は、こっちのお茶にしました」



「……こっちの国のじゃなくて?」



「はい。たまには、懐かしい味がいいかなって」



一口飲んだ。エルミナ様がくれた紅茶。口当たりが柔らかくて、少し甘い。



「……美味しい」



「でしょう」



二人で笑った。


(泣いた後に笑えるのは、隣に誰かがいるからだ)


その言葉は声に出さなかった。

言わなくても、フィーネには伝わっている気がした。





「お嬢様」



「うん?どうしたの」



「ゲッツのことですけど。……私、一つ気づいたことがあるんです」



「何」



「夜会の時、ゲッツの近くに迎賓館の使用人が一人いました。給仕係に見えたんですけど……なんだか雰囲気がおかしくって。なんだか使用人って感じではなくて、ゲッツを警戒しているような、嫌っているような…そんな目でした」



「嫌っているような?まあゲッツに恨みを持っている人は少なくはないでしょうね」



「あの人、ゲッツの元使用人とかじゃないですか?きっと今は迎賓館で働いてるんだと思います。あの顔は……きっと陥れられた人だと思います。私…なんとなくそう思います、放っておけません」



フィーネがそう言った時、あの最初の裁判を思い出した。

フィーネ自身が脅されて偽証した日のことを。


(……この子は、あの時被害者側だったから、細かいところまで見えてるのかな)



「そうね、これからゲッツに立ち向かっていくにあたって、ゲッツの弱みも知らなきゃいけないし……調べてみましょうか」


「あ、ありがとうございます!じゃあ早速、明日から名前と何を知っているか…調べなきゃですね!」



「……フィーネ」



「?なんでしょう…お嬢様」



「気をつけてね」



「大丈夫です。嘘を見抜くのは、もう得意ですから!もう、あの頃の私じゃないですよ!」



フィーネが笑った。強い笑顔だった。


「……頼もしくなったわね」


「何か言いました?」


「いいえ、なんでもない、独り言よ」


 



翌日、フィーネが調べてきた情報は、想像以上だった。


ゲッツの元使用人。名前はコンラートという。


ゲッツの書斎で働いていた時期がある。


ゲッツは毎晩、書斎で何かを書き写していた。影の法官の名簿のコピーだ。

どうやらコンラートはその一部を覚えているらしい。


そして、名簿の中には連邦の法務大臣の名前があったそうだ。


ゲッツは連邦にも「影の法官」のネットワークを作ろうとしていた。

いや、もう既に作り始めている。



「お嬢様。コンラートさん、証言してもいいって言ってます。ただし、身の安全が保証されるなら…ということでしたが」



「ライナに相談しよう。連邦政府の保護が必要ね」


私はライナに連絡を取った。今度は、ライナの反応が違った。



「法務大臣の名前が名簿にある……これは使えます。政府内部にも、大臣を追い落としたい勢力がいる。公聴会を開く口実になる」



「公聴会…ですか?」



「ゲッツの法律顧問活動に関する公聴会です。連邦議会の権限で開催できる。……ただし、ゲッツはこれを自分の無実を証明する場に変えようとするでしょう」



公聴会。


(……また、だ)


あの時と同じ。

でも今度は違う。私も力と知識、経験があるし…頼もしい仲間もいる。



「お嬢様、名簿の中に……もう一つ、見つけたものがあるんです」



フィーネの声が小さくなった。



「名簿に載っている人の中に……十五年前にエルベルト連邦の東部で土地を没収された家族のリストがありました。その中に…私の家族の名前がありました」



フィーネの目が揺れている。



「お母さんが何も言わなかった理由が……やっとわかりました。ゲッツの不正で土地を取り上げられて、この国にいられなくなったんです。だから引っ越してきた……逃げてきたんです」



フィーネの手が震えていた。

私はその手を握った。



「……フィーネ」


(何を言えばいいのかわからない…いつもフィーネは私にやさしい言葉をかけてくれるのに…)



「大丈夫です。……大丈夫です」



フィーネの目に涙が溜まっていた。


(大丈夫じゃないのに)


でも今は、フィーネが「大丈夫」と言うなら、そうさせてあげようと思った。

手を握ったまま、フィーネの傍にいることしか出来なかった。


「フィーネ、私が公聴会でゲッツを止める。フィーネの家族のためにも、みんなのためにも」



「……お嬢様」




連邦議会の公聴会開催が決定した。


ゲッツは予想通り、それを「自分の潔白を証明する機会」として歓迎するコメントを出した。


この男は、追い詰められた時に一番強くなるタイプなのだろう。



でも今度は、前と違う。

今度は一人じゃない。カスパルがいる、フィーネがいる、ライナがいる、コンラートの証言がある。




悔しい気持ちも、怖い気持ちも、泣いた分の涙も、全部私の中に残っている。


でも泣いても、立ち上がれるなら。


まだ戦いは終わっていない。



【続く】

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