第十三話 法の精神と逆転の楔
「私は連邦の法律に違反したか? 法という道具を効率的に使っているだけだ」
ゲッツの声は、いつものように穏やかだった。
その口調には微塵の焦りもなく、まるで初めから勝敗など決まりきっている退屈な遊戯を楽しんでいるかのようだった。
しかし、その言葉が公聴会の広間に響き渡ると、議員たちや傍聴席の間にざわめきが広がった。
「法を知らぬ者が法廷で敗れるのは当然のこと。私は、この国の法廷のルールに従って遊んでいるに過ぎない。ルールを守っている以上、私を裁くことは誰にもできないはずだ。そうだろう、議長殿?」
自信に満ちた言葉。
それは、彼が三十年間、二つの国にまたがって積み上げてきた絶対的な安全地帯からの傲慢だった。
隣でカスパルがギリッと奥歯を噛む音が聞こえた。
「……あれが、影の法官。法をなんだと思っているんだ」
彼のような真面目な法律家にとって、ゲッツの言葉は法への最大の冒涜だろう。
法は正義のためにあると信じて学び、努力してきたカスパルにとって、ゲッツのように法を己の私利私欲のための玩具にする存在は決して許しがたいものだ。
その拳は白くなるほど強く握りしめられていた。
「……遊び、ですか」
私は一歩前へ出た。
「法を道具だと言い、他人の人生をゲームのように盤上に並べて遊んでいる。……ゲッツ・フォン・アイゼンベルク。あなたがこの数ヶ月、そして過去三十年やってきたことは、たしかに『法律の表面』はなぞっていたかもしれない」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
あの穏やかな笑顔の奥にある、醜い傲慢さを引きずり出すために。
私は思い出す。前世で、法務部のOLだった頃のことを。
『まあまあ、法律上は問題ないんだから、彼らには泣き寝入りしてもらおうよ』
あの上司の笑い顔が、目の前のゲッツとピタリと重なる。
法律上問題なければ、誰がどれだけ泣こうが関係ない。その冷酷な合理主義が、どれだけ多くの人を踏みにじってきたか。
私のような弱い立場の人間が、どれだけ血の涙を流してきたか。
だからこそ、私はもう二度と、そんな理不尽には屈しないと決めたのだ。
「でも、法は権力者が弱者を効率的に潰すための道具ではありません。声を上げられない人間が、それでも声を上げるためにあるものです」
「理想論ですね、リーゼロッテ嬢。理想では法廷には勝てませんよ」
ゲッツが鼻で笑った。
「あなたの言う『声を上げられない弱者』とやらが、この法廷で私に勝ったことがありますか? この三十年、私は一度も敗れたことはない。それが現実というものです。どれだけ理想を語ろうと、敗者の負け犬の遠吠えに過ぎない」
「ええ、だから私は証拠を用意しました。あなたが『法律に違反していない』と主張する、その土台を崩す証拠を」
私は手元の束から、一枚の紙を高く掲げた。
「コンラートさん、前へ」
傍聴席の最前列から、小柄な初老の男が立ち上がった。
ゲッツの元使用人であり、長年彼の裏仕事を手伝わされてきた男だ。
ゲッツの眉が、ここで初めてわずかに動いた。
「ほう……飼い犬に手を噛まれるとは、このことですか。彼のような卑小な人間の言葉を、この神聖な議会が信じるとでも?」
「コンラートさん。あなたが長年つけさせられていた、この裏帳簿について説明してください」
コンラートは震える声で、しかしはっきりと議会に向けて話し始めた。
「……私は、ゲッツ様のご指示で、連邦の公証人や鑑定士たちに現金を渡していました。日付の改ざん、意図的な鑑定の遅延、証人への脅迫……」
コンラートは一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「フィーネさんのご家族の土地を奪ったのも……ゲッツ様の指示でした。架空の借用書を作り、公証人に本物だと認めさせ、合法的に土地を没収したのです。……これらはすべて、私の手書きで、帳簿に『交際費』として処理されています」
広間が大きくどよめいた。
傍聴席にいたフィーネが、強く両手を握りしめているのが見えた。
彼女はずっと、この瞬間を待っていたのだ。家族を壊した元凶が、白日の下に引きずり出されるこの時を。
フィーネの目には大粒の涙が浮かんでいたが、彼女はそれを拭おうともせず、真っ直ぐにゲッツを見据えていた。
「さらに!」
私はカスパルから受け取った別の書類を掲げた。
「これは、エルベルト連邦の銀行から取り寄せた、公証人たちの口座記録です。ライナ外交官の権限で、特例として開示していただきました。コンラートさんの裏帳簿にある日付と金額が、公証人たちの不自然な入金記録と完全に一致しています!」
ゲッツの顔から、ついにあの余裕の笑みが消えた。
額に、一筋の冷や汗が流れるのが見えた。
彼はずっと安全な場所から盤面を見下ろしているつもりだった。自分が盤上に引きずり降ろされることなど、微塵も想像していなかったのだろう。
「つまり、あなたが勝ってきた裁判は『法律の隙間を突いた』のではなく、『賄賂と偽造という明らかな犯罪行為』によって作られた不正な勝利です。あなたはルールの中で遊んでいたのではなく、最初からルールを破壊していただけだ!」
私の声が、反響して広間の天井まで響き渡った。
「……っ!」
ゲッツが鋭い視線を私に向けた。
「たかが元使用人の証言と、こじつけの口座記録!そんなもので私を罪に問えるとでも思っているのか!」
「ええ、問えます」
私の隣で、カスパルが静かに、だが力強い声で言った。
彼は手元の法典を開き、響き渡る声で読み上げた。
「連邦法廷規則第十七条。公証人に対する贈賄が発覚した場合、その公証人が関与したすべての証拠能力は無効となり、関与者は即座に身柄を拘束される」
カスパルは眼鏡を押し上げ、冷たくゲッツを見下ろした。
「ゲッツ・フォン・アイゼンベルク。あなたはもう、法の外側から高みの見物をすることはできない。あなたが遊び道具にしてきた法が、今、あなた自身を縛る鎖となるのです」
議会から、拍手にも似た大きなどよめきが沸き起こった。
議員たちの目は、もはや彼を「有能な法律顧問」としては見ていなかった。ただの「法を汚した犯罪者」として見ていた。
陪審員たちも、怒りと軽蔑の目をゲッツに向けている。
「……おのれ、小娘が……!」
ゲッツの口から、初めて怒りに満ちた声が漏れた。
あの穏やかな仮面が完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
彼はもはや、計算高く余裕のある影の法官ではない。ただの追い詰められた罪人だ。
私は小さく息を吐いた。
ずっと溜まっていた胸のつかえが、少しだけ取れた気がした。
だが、この男はまだ終わらない。
窮地に陥った鼠は、必ずどこかに逃げ道を用意している。
「……衛兵!この場で彼を拘束しろ!」
議長が叫んだ。
しかしゲッツは、突然不敵な笑みを浮かべ、懐から一枚の書状を取り出した。
それは、金色の封蝋が押された公式な文書だった。
「無駄だ。私はすでに、西の諸国連合への外交特権を得ている。この書状がある限り、この国に私を逮捕する権限はない!」
広間が再び静まり返った。
外交特権。それは、他国の法に縛られない絶対の盾。
どれだけ証拠を突きつけようと、彼をこの法廷で裁くことはできないという宣告だった。
議長も、衛兵たちも、その書状を見て動きを止めてしまった。
最後の逃げ道。
それが彼の、最後の切り札だった。
だが、私はそれを見て、思わずクスッと笑ってしまった。
「……何がおかしい」
ゲッツが怪訝そうな顔で私を睨む。
「いえ。やっぱり、あなたは私の前世の上司によく似ていると思って」
私は、後ろで控えていた外交官のライナに目配せをした。
彼女は静かに頷き、手元にあった別の書類を議長に向けて差し出した。
「ここからは私のターンよ。」
【続く】




