基礎論Ⅰ:小説における「新しさ」とは何か
さて、前回は具体テキストと抽象テキスト、そして具体としての(名前を持った)他者=読者と、抽象としての(名前を持たない)他者=読者の話をさせていただきました。
次回はよしもとばななの話をすると予告しましたが、もう少しちゃんと練りたい(つまり、一番有名な「キッチン」だけを取り上げてイチャモンをつける真似は避けたい)ので、二番目の「新しさ」の話をします。予告に保険をかけておいてよかった。
最近図書館で無目的にブラウジングしてたら、「アメリカでは本は新しいことが10%書いてあると売れない」という編集者のボヤキに笑いました。でも、これは別にアメリカに限ったことではなく、どこの国でもおそらくそうです。
たとえば「予想のつかない展開」はある。けれど、それは本当に「予想」が全くつかない、という意味でしょうか。真剣な戦記もので、熱血漢で頼れる仲間が実は裏切った……という展開は、予想が付かないようで、実はその「物語」の枠内でこなされている変化に過ぎません。
たとえば突然作者が現れ、「こんな物語ただのフィクションなんだよ! 意味ねーんだよバーカ!」と叫んだとする。確かに「予想外」の展開だけど、それは本当に「面白い」のでしょうか。
もちろん、面白くありません。
何かのスポーツでいう「予想外の展開」とは何か。
私はフィギュアスケートが好きなのですが、たとえば「予想外の展開」は格上の選手をふだん下位にある選手が打ち破るような(同じスケートファンの方がいらっしゃるとすれば、サラ・マイヤーの2011年ヨーロッパフィギュアスケート選手権優勝です)事態をいうのであって、突然スケート靴の代わりにスリッパを履いて滑ろうとするとか、そういう意味ではない。
だから、「予想外の展開」とは、常に「ルール内にある」という意味で、予想内の展開であるわけです。
これを踏まえるならば、「予想外の展開」あるいは「新しさ」とは、既存の展開なしには進まないということです。既存の展開を否定することでしか、「予想外」も「新しさ」もない。
先程の例でいえば、純真で熱血漢なキャラは「ふつう」裏切らない。
だからその「ふつう」を否定して裏切らせることで「意外性」が出現している。「意外性」とはパターンの習熟があって初めて成立するものであり、その意味で「巧み」であるが「新しい」ものではないのです。
もちろん、フォーマットの裏切りだけを「意外性」というべきではありません。それは「新しさ」とは呼ばない。完全な「新しさ」は存在する。だから「アメリカでは本は新しいことが10%書いてあると売れない」というボヤキが成立するのです。
しかし、そうした「新しさ」を最初から意図することは極めて困難です。なぜならそれは、一つの様式、スタイルの開発だからです。
そもそも、「新しさ」とは存在するのでしょうか。
柄谷行人という日本の学者さんが「政治、あるいは批評としての広告」でこんなふうに説明しています。
小説を読んだことのない人間は、小説を書くでしょうか。いいえ。書かないでしょう。これは「小説らしさとは何か」という定義にも関わってきますが、新聞を読むにしろ、小説以外を読むにしろ、とにかく読まない人間は書かないのです。
それはもちろん、小説においてもそうです。
ですから、完全な新しさなどは存在しない。「オリジナル」なものとは、要するに別の「オリジナル」のコピーのもとでしか成り立たない。だから、「オリジナル」と「コピー」の違いなどない。
こういう考え方を、難しい言葉で「脱構築」と呼ぶそうです。
この「オリジナル」(一次的なもの)と「コピー」(二次的なもの)の差異など実際にはなく、全てのオリジナルは別のオリジナルのコピーであるという発想は、他の色々なジャンルでも応用可能です。
たとえば「商品」と「広告」という組合せを見てみましょう。ちょっとだけ、経済の話になります。
田舎のタバコ屋に売っているものは、基本的にあまり品揃えが変わりません。それは、「一番実用的だ」とされている商品がすでに決まっていて、別のものを取り入れる必要がないからです。
一方、都会の百貨店に売っているものは、次々と品揃えが変わってきますね。そこでは「実用的であるかどうか」というものは、あまり考えられない。おそらく、ここで商品に意味を成しているのは「本質的な価値」ではなく、「いかに宣伝されているか」ではないでしょうか。
しかし、本来的には(素朴なかたちでは)「商品に価値があるからこそ、宣伝が成立する」はずですね。何の価値もない、誰も使わないような商品には、そもそも宣伝する意味がないのです。だから、誰もしません。
でも実際に都会に行けば、「ほんとにこれ要るの?」というものまで宣伝されて売り出されるわけです。商品に価値があるからこそ生まれたはずの宣伝は、ここにおいて逆転してしまう。むしろ、その宣伝によって価値が生まれるわけです。
つまり、一次的なものの価値と二次的なものの価値が逆転してしまっている。では、そもそもそのどちらかに価値が偏っているようなことなどなく、ケースバイケース(つまり「田舎のタバコ屋」か「都会の百貨店」か)によってしか優劣は決定されない。都会の百貨店では、「商品」が「広告」を作るのではなく、「広告」が「商品」を作るのです。
わかりやすい例になったつもりが、ちょっとわかりにくくなってしまいましたね。もう一つ例をあげてみましょう。「本質(真理)」と「現象」で考えてみましょう。もっとわかりにくそうだけれども。
私たちはふつう、何かの物理法則(一次的なもの)があるから、その結果として物理現象(二次的なもの)があると考えますね。
でも、その物理法則がそもそも発見されたのは、どういった過程からでしょうか。それは、物理現象の観測(二次的なものへの着眼)があって、初めて成立したのです。
いわば、二次的なものを数多く観測して、たまたま一番合理的だと思われる説明が「法則」として捻出されたに違いない。もしその「法則」に違う現象が一定以上観察されれば、「物理法則」は簡単に瓦解してしまいますね。
だから、「本質(真理)」と「現象」は、やはりここでもはっきりとした力関係はないように思われます。今は「現象」優位で考えましたけど、ふつうはやっぱり「本質」があってから「現象」があるように思うのですから。
世界史を学んだことがあれば、「実在論」「唯名論」という区別を覚えているかもしれません。
「実在論」とは、たとえば「机」なら、「机」という本質的概念がどこかにあって(これを「イデア」といいます)、あくまでその現れとして個別の「机」があるという考え方です。それに対して、「唯名論」は、世界には個別の「机」しかいなくて、たまたまそれを集合させたときに「机」という呼び方をしているのであって、「机」という本質的概念は存在しないと考えます。
つまり、「実在論」は「一次的なもの→二次的なもの」という思考であり、「唯名論」は「二次的なもの→一次的なもの」という考え方です。
「机」という本質的概念は存在しないって言ってるのに何で「二次的なもの→一次的なもの」なの? とお考えになられるかと思います。「実在論」で言うときの「一次的なもの」とは「本質的概念」なんだけれど、「唯名論」で言うときの「一次的なもの」とは「集合」のことですね。つまり、「唯名論」の「集合」は、さっき物理法則のところで話したように、あくまで「その時点で最も合理的な」ものに過ぎないわけです。とはいえ、それも個々を乗り越えた仮初の「本質」として存在しているわけですね。
なんだか小説の話そっちのけで、どうでもいい話ばかりになってきました。
そんなのどうでもいいじゃん。もっともです。小説を書くうえではどうでもよいのでしょう。
大切なのは、ほとんどの場合、「オリジナリティ」とは「オリジナルではないが、ルールを巧みに裏切るもの」だということです。
ですから、一般に言う「オリジナリティ」とは、要するに「いかにルールを熟知するか」、つまりは「オリジナル」とはコピーの上にこそ成り立つ以上、「新しさ」あるいは「予想外」とは、パターン(コピー可能なもの)を知ることで初めて可能となるわけです。
しかし。
ここまでの話も、実はよくある議論の展開です。もちろん、私も「新しさ」の定義とはこれでいいと思います。フランスのジャン・コクトーという人も、「流行とは、古くなるもののことである」とかっこよく書いてるぐらいですし。
みなさんは、「良い小説を書けば、必ず評価される」とお考えでしょうか。
実はこの「小説家になろう」という優れたサイトでも、そう信じることは困難ではないでしょうか。
たとえばこんなサイト内のエッセイを、最近私は読みました。「ランキングの作品は、みんな面白い作品の模倣作ばかりで、全然当てにならない」その是非はともかくとして、このような現象は、実は「小説家になろう」に限ったことではないはずです。
裏返すならば、「模倣作ではない<良い小説>は、面白さがあるならばもっと評価されるべきだ」という意見として読むことが出来ます(これはそのエッセイを――はっきり言うならば「憂鬱な若人」さんの「なろう作家、読者の皆さま方へ」ですが――曲解した読解ではないはずです)。
今、皆さんは「ランキング」というものをどれ程信じていますか。
「オリコンチャート」というランキングがありますね。でも、そこで一位になった音楽が「良い音楽」とは限らない、と思う方がおられるのではないでしょうか。
AKB48なんて全然良い音楽じゃない、たとえばサカナクションも相対性理論もオリコン一位を取ったことないけどいい曲を出している、みたいに。「とある魔術の禁書目録」「とある科学の超電磁砲」の川田まみや黒崎真音やfripsideや「ココロコネクト」のeufonius(大変なことになってしまいまたが)でも同じことです。
これをどう解釈すると、「ランキング」は必ずしも「良いものの指標」ではないということです。ものはたくさん溢れているのに、それを評価する仕事がちゃんと出来てないから、「ランキング」が当てにならない。
これを東浩紀という人は「サーキュレーション(流通)の不全」と呼びました(次から続く文章は、彼の「存在論的、広告的」の二次創作、というか盗作です)。
「キュレーター」という言葉をご存知ですか? 日本語でいうとだいたい「学芸員」のことです。つまり、博物館などで研究をして、展示を執り行う人のことですね。言ってしまえば、「学術の世界」と「一般市民の世界」の「媒介」をする人です。
これは別に博物館に限ったことではなく、たとえば「書評」みたいな形で存在しますね。
しかし、公費で賄われている学芸員の皆様はともかくとして、実はこれには非常にお金と時間がかかります。当たり前です。正しい評価を下すには、それだけ「作品」を見なくてはならない。「良いものを送り出す」にはまず、何の情報もない状態から「良いものを探す」必要があるのです。そのコストに加えて宣伝費用なんて考えていったら、とてもじゃないですが今の景気の悪さでは成立しません。
日本では「ニューアカデミズム」という時代がありました。何だかよく分からない哲学をみんなでありがたがった時代みたいに言われています。
ラカンさんとかデリダさんとかいう、遠い国フランスの言っていることのよく解らない人たちをありがたがった時代です。その思想の価値はともかくとして、何故「よく分からない」のにみんなが読んだのか。それは「これは良いですよ!」と宣伝してくれる人たちが居たからです(つまり、価値はあったわけです。私も全然解らないんですけど)。
だからみんな「良いの! じゃあ読むよ!」といった。
そういうキュレーターの皆さん、媒介してくれる人たちとか仕組みに信頼があったのです。
でも、景気が悪くなると、そういうわけにはいかない。とにかく売れるものを世の中に送らねばならないのです。「本当に良いもの」なんて探してる暇がない。
その結果、かつての「良いもの」を再び評価するほかありません。たとえばAKB48は「おニャン子クラブ」の秋元康がやるぐらいだから大丈夫だろうとか、SMAPも嵐も今まで「良いもの」とされてきたから良いんだろう……。
「ステマ」という言葉がありますね。正しくはステルスマーケティングといって、そのものが良いかどうかはともかく、とにかく誰かに「これは良いものなんだよ!」と言わせて、口コミを装った宣伝をさせる商売のことです。
実はこれも、景気が悪い以上当たり前なのです。「良いもの」って向こうが言っていて、しかもこっちにはお金がなくて、しかも宣伝したら向こうがお金くれるって言うんなら、そりゃ、やるよね。
でも結果として、それは「ランキング」への不信どころか、たとえば今までは「ランキング」とは離れていて本当に良いものだけを評価しているように思われていた「まとめブログ」が、本物の「ランキング」と思われていたものにまで不信が寄せられてしまうことにしかなりませんでした。
サーキュレーション(流通)が成功している、「ランキング」とか「評価者」がちゃんと仕事を出来るぐらい景気の良い時代には、どういうことが起こるか。
それは、既存の「面白さ」からちょっとだけずらしたものこそが、もてはやされるのです。そしてその「面白さ」にみんなが慣れたころ(全員に十分流通したころ)、またもう少しだけずらしたものを提供する。それが「新しさ」となる。
しかし、サーキュレーション(流通)が失敗している、「ランキング」というお上が当てにならない状況では、みんな自分で好きなものを探すしかないのです。
そして、それで結構楽しくやって、「オリコンチャートを未だに信じてるやつとか、ばかだな」と思いながら(もちろんそういう人が全員ではないですよ!)「マイナーだけど良い音楽」を聴いたりしているわけですね。
その結果何が起こったかといえば、みんながみんな自分のやりたいようにやるから、共通の話題がなくなった。これを「イデオロギーの死」とか「大きな物語の死」とかいうんだろうけど別にそんな言葉はどうでもよくて、要するに「みんな人それぞれだから、それでいいじゃん」という考え方が生まれて、たとえばネットで検索すれば自分と趣味の合う人も適度に見つかるようになり、もともと趣味の合わない人とは最初からあまりつながらない世界になっているわけですね。「クラスタ」って言うじゃないですか。
だから、ライトノベルの書き手が「純文学」に向けて書くことなんてほとんどない。逆も然りです。 ライトノベルの書き手は、それぞれのお約束に則って、ライトノベルの読み手が解るように書けばいい。ライトノベルで「義妹」というのは「お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ」と迫ってくるヒロインに決まっているのです。たとえ表面は好意的でなくても、本当は心配しているとか。
つまり「お約束の世界」なのです。これが意味するのは、「解釈」の不在です。
たとえば「純文学」の小説には「心理」という概念が存在しますね。現代文の試験で皆さんもやった/やっています「このときの登場人物の気持ちを答えよ」です。それは、一々自分で情報の「意味」をくみ取る、「解釈」をしなければならないのです。
それに対して「ライトノベル」の「義妹はお兄ちゃんのことが好きである」は「お約束」です。こんなの別に「解釈」なんて要りません。大事なのは「お約束が解るかどうか」というその一点だけです。
つまり、「解釈」の時代から「解読」の時代へと移行していった、そのなかで「お約束」の小説としてライトノベルがあるというわけです。
長々と書きましたが、この状況は、「良いものを書いている」と考えているときには非常に鬱陶しいです。
たとえ良いものを書いていたとしても(その「良いもの」の内容はともかくとして)、「お約束」に則っていないのなら、「わかりやすさ」がないのなら評価されない。ない場合に評価してくれるはずのキュレーターも機能していない。
それどころか、評価してくれるはずだった「まとめブログ」も、結局は「オリコンチャート」とやっていることは同じだった。
何故「俺の妹がこんなにかわいいわけがない」「この中に一人、妹がいる!」「お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ」というこの三つの作品が次々放送されていったのでしょうか。これらはみな、「妹もの」というお約束が十分全体に行き渡っていて、ふつうの「妹もの」ではつまらなくなったから受けたわけです(もちろん、それ以外にもたくさん要素はあるはずだから、これは一因に過ぎません。たとえば「お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ」は他のヒロインがむちゃくちゃ可愛かったりしますが、それはまあ置いておきましょう)。
ここで十分全体にお約束を行き渡らせたのは、「まとめブログ」というキュレーター(ランキング)だったのではないでしょうか。
ちゃんと調べてはいませんが、「まとめブログ」がキュレーター(ランキング)と化した頃、アニメのヒットを司るようになり始めたころから、おそらくまとめブログをめぐる諸問題も発生したのではないでしょうか。
つまり、ここで起きているのは、別次元でのサーキュレーションの成功です。オリコンで起きたことと、まとめブログで起きたことは結局同じ事態の繰り返しに過ぎません。
あるいは「売りスレ」の出現もそうです。そんなものは、オリコン以前におそらくもっと前の時代でも繰り返されていた現象に過ぎません。
だから「質アニメ」つまり、質は良い(面白い)にもかかわらず売れない、という現象が発生するわけです。「もっと評価されるべき」という声は、「みんながみんな、自分の良いものを楽しめばいいじゃない」という流れがある場合には起きません。別の「良いもの」が「みんな」(=ランキング)に評価されているにもかかわらず、されていないからこういう意見が起きるのです。「まなびストレート!」も「ゼーガペイン」も「プラテネス」も「true tears」もみんなそうです。
ですから結局みんな「ランキング」が好きな時代に舞い戻っているわけです(今、たぶんちょうど過渡期です)。
「ランキングが機能していない」時代には、「新しさ」とは、「わかる人にだけはわかる、お約束」で狭いが一定のレスポンスを返してくれる人々に向けて書くこと、つまり「お約束」を裏切ったり、「お約束」同士を組み合わせるやり方でしか成立しません。
あるいは、そもそも根本に立ち返れば「新しさ」とは抽象テキストなのだから、他者=読者が新しいと思ってくれるかどうかであって、それを実際にやってみないことには始まらない、という数打ちゃ当たる的な実践にはまり込む他ありません。
それでは「ランキングが再び機能し出した」時代で「新しさ」とは何なのか。
おそらく考えるべきはそちらなのです(これは愚痴になりますけど、それを一切考えずに「大きな物語の死」なんてことを言っても意味がないのです)。そのとき、大塚英志「キャラクター小説の書き方」のような優れた「書き方論」が果たして機能するかどうかは、正直私には見当が付きません。
し、その「新しさ」もはっきり言って、解りません。
随分長くなってしまったうえに、もはや「小説」とは全然関係のない話になっていますね(だから「基礎論」としました)。結論にはなっていないけれど、もしあなたが「新しさ」に気を病んでいるのならば、そんなものは気にする必要がないのです。
第一に「新しさ」とは抽象テキストなのだから、書き手にとってはどうしようもない。
第二に「新しさ」(オリジナリティ)とはそもそも「コピー」(古さ)によってしか成立しないものであって、要するに「巧みに<お約束>を認識し、それをアレンジしたり組合せる力」によって成り立つものなのです(これが大塚英志「キャラクター小説の書き方」の論法です。ただし彼は、<お約束>とはまったくかけ離れた位置にある「新しさ」を決して否定していません)。
しかし、だからといってそれは、「模倣」に終わっていいという意味ではありません。
大切なのは「新しさ」ではなく、「面白さ」でしょう。
そしてそれは、一つには物語の要素を正確に組み立てる力と、文章を正しく(狭く)書く力に起因します。ですから、私は今のところは、「新しさ」については、やはりまず「パターン」を正確に認識し、それを適切に裏切ることで生まれるのだと定義しておくつもりです。
ですから、「模倣」した作品に何かワンポイントを加えるような工夫こそが、今のところは「新しさ」や「面白さ」には必要なのだとしておきましょう。
随分長く勿体ぶった話のわりに、あまり小説の話になっていませんでしたね。でも、たとえば第一回目の「Say,feel,think,doを消す」などといったあまりに些末な話が、「広すぎるイメージ」につながったように、こうした考えは全部つながっているものなのだと思います。
ルーマニアの思想家でシオランという人が、こんなことを言っているそうです。
「駄目な詩人がいっそう駄目になるのは、詩人の書くものしか読まぬからである(駄目な哲学者が哲学者のものしか読まないのと同じことだ)。植物学や地質学の本の方が、はるかに豊かな栄養を恵んでくれる。人は、自分の専門を遠く離れたものに親しまないかぎり、豊穣にはなれない。」
そういうことではないでしょうか(しかしながら、これは実は、私たちが古くから親しんできた共同体の在り方に、あるいは資本主義と全くパラレルな言動であるのを押さえておく必要があります。共同体はたとえばスケープゴートと村八分によって内部の要素を一部排出し、祭儀によって外部の要素を一部取り入れているわけです。それも余談ですが。ということで、別に新しい話ではない)。
何だか曖昧な話ばかりなので、次はちゃんと具体的な話をしましょう。
次回は文章論として、「作者の安定化装置としてしか働いていない語句は、全部消す」という話をしましょう。これも「Say,feel,think,doを消す」という今から考えればあんまりにもあんまりな話と大して変わらないので、気張らずに聞いていただければありがたいです。
それでは。
さて、今回の文章は依然紹介させていただいた柄谷行人「政治、あるいは批評としての広告」(「<戦前>の思考」所収)と、東浩紀「存在論的、広告的」(「郵便的不安たち」所収)の完全な剽窃です……。この文章はその二つを組み合せて書かれたものに過ぎないので、これも言ってしまえば「パターン」の組合せになるのでしょうか……。
どちらも素晴らしい本です。
ともかく、次回からはもう少し具体的な話をします。ごめんなさい。