Code:127 絵本『天角の花嫁』③
この場面の挿絵は、絵本の中で最も印象的なものだった。
雪の中、天角を強く握る少年の手。
驚愕と、そして高揚感に満ちた少女の表情。
背後に迫る災魔の巨大な影。
全てが一枚の絵に凝縮されている。
「やめて!」
ルナは必死に抵抗した。
「あなたまで、呪われる必要はないの……!」
異能に触れると、呪いが移るという言い伝えがあった。
強く触れれば触れるほど、長く触れれば触れるほど、強く呪いが移るという迷信があった。
これは異能が災魔を惹きつけるという学術ベースの説と違い、根拠のない風説だ。
しかし、現代においても、それを信じている者は多い。
特に、一般人の間では。
「もう遅いよ」
ソルはそう言って、しっかりと角を握ったまま離さない。
「君と出会った時から、僕はとっくに君の“呪い”に掛かっているから」
温かい手が、氷を溶かすかのように天角を包み込む。
それは、まるで彼女の全存在を受け入れるような、深い愛情の証だった。
『災魔が大きな口を開けて二人を呑み込もうとする中、ソルは笑顔でこう言いました』
死を目前にした最期の瞬間。
「ルナ、僕と結婚してください」
迫り来る災魔を前に、時が止まったような静寂が、一瞬だけ訪れた。
「こんな時に何を——」
「今しかないんだ」
ソルの瞳は、真っ直ぐにルナを見つめていた。
恐怖はそこにない。
ただ、純粋な愛だけがあった。
「この天角に誓う。君を永遠に愛すると」
その言葉の意味を、ルナは理解した——それは異能の呪いと目前の死、全てを受け入れるという、究極の愛の証明。
『ルナは涙を流しながら、心から笑いました』
「はい、喜んで」
最後の挿絵は、抱き合う二人の姿だった。
程なくして災魔の影が覆いかぶさり、牙が鋭く音を打ち鳴らす。
でも、二人の顔には恐怖はなかった。
ただ、穏やかな幸せだけがそこにあった。
『二人は災魔に飲み込まれ、その中で一つになりました』
『もう離れることのない、永遠の存在として』
物語の最後のページには、災魔の体内で光る、二つの魂が絡み合った光の球が描かれていた。
それは悲劇なのか、それとも究極の幸福なのか——読む者に委ねられた結末だった。
* * *
クーレリカは、そっと絵本を閉じる。
古びたページから、かすかに母の香りがするような気がした。
それは記憶の中の香りかもしれない。
でも、確かに感じる温もりがそこにあった。
「……お母さんが幼い私に読んでくれた物語」
幼い日の記憶を辿る。
母の膝の上で、この絵本を読んでもらった夜。
まだ異能の意味も知らず、ただ純粋に物語を聞いていた頃。
「あの時、私はこの物語が嫌いだった」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
「こんな悲しい結末、あんまりだって思ったから」
絵本の表紙を指でなぞる。
擦り切れた革の感触が、馴染んでいく。
「でも、お母さんは言った。これは悲しいだけの物語じゃないって」
記憶の中の母の声が蘇る。
何かを伝えるように、教えるように。
「いつか、あなたの前にも、命を賭けて愛してくれる相手が現れるって」
涙が一粒、絵本の上に落ちた。
懐かしさと憧れが入り混じった複雑な感情の雫だった。
「昔のことだけど、よく覚えている」
この絵本は、今では発行禁止になっている。
異能を擁護する活動家たちは「“異能所持者と結婚すると不幸な末路を辿る”というステレオタイプを助長する」と批判した。
異能を排斥する活動家たちは「“異能所持者と駆け落ちした結果、為す術なく災魔に殺された”という話を美化している」と非難した。
双方からの強い反対により、ついに発禁処分となったのだ。
でも、禁じられたからこそ、既に流通した本は密かに、熱烈に読み継がれている。
特にサブカルチャー界隈では熱狂的な支持を受けており、異能所持者の発達部位に力強く触れることは「究極のプロポーズ」を意味するという解釈が定着した。
その行為がプロポーズとして認識される理由——それは「呪いが移る」という風説があるから。
つまり「命を賭して、あなたとの永遠を誓う」という意味なのだ。
クーレリカは最後のページを見つめる。
ソルがルナの角を握る、あの場面。
(「馬鹿みたいだけど……」)
頬が熱くなる。
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。
柔らかな感触に、恥ずかしさを隠すように。
(「憧れちゃう、よね……」)
自分の全てを受け入れてくれる人。
異能を恐れず、呪いを恐れず、ただ自分を愛してくれる人。
(「そんな人、いるわけないけど」)
現実は絵本とは違う。
人々は異能を恐れ、差別し、排斥する。
自分の天角を見て恐れない人など、セティリアのような異能所持者や、ジュリアナのような遥か格上の強者だけだ。
でも、想像するだけなら——
目を閉じる。
いつか、どこかで、誰かが——
「呪いなんて関係ない」と言ってくれる人。
自分が迫害された時に、守ってくれる人、共に戦ってくれる人。
(「そんな人が、もし現れたら……」)
胸が苦しくなる。
甘い痛みが、心臓を締め付ける。
これは憧れ。ただの、夢物語への憧れ。
アルトの顔が、一瞬脳裏をよぎった。
優しい笑顔。理解を示してくれた温かい瞳。
でも——
(「違う、違う」)
慌てて首を振る。
彼はただ優しいだけ。
誰にでも優しい、良い人なだけ。
考えたくない。期待したくない。
裏切られるのが怖いから。
絵本を胸に抱きしめたまま、いつの間にか眠りに落ちていく。
疲れた心が、夢の世界へと沈んでいく。
夢の中にいる時だけ、クーレリカの表情は安息に包まれていた。
いつか、きっと——そんな淡い希望を抱きながら。




