Code:126 絵本『天角の花嫁』②
『二人は手を取り合い、夜の闇に紛れて町を出ました』
夜道を走る二人の影が、絵本のページに刻まれていた。
背後からは追手の声、犬の吠える声が聞こえてくる。
松明の明かりが、遠くで揺れている。
二人は振り返らなかった。
ただひたすらに、前だけを見て走り続けた。
荷物はほとんど持っていなかった。
ソルは父の店から持ち出した僅かな食料と、母が残してくれた形見の指輪。
ルナは、母から教わった薬草の知識が記された小さな手帳だけ。
『幾日も歩いた末、二人は深い森の奥に小さな小屋を見つけました』
木漏れ日が差し込む、静かな森の奥。
そこに建てられた小さな小屋が、新しい挿絵に描かれていた。
壁は苔むし、屋根には穴が開いていたが、二人にとっては宝物のような場所だった。
最初の数日は大変だった。ソルは見よう見まねで罠を仕掛け、小動物を捕まえることを覚えた。
ルナは森で薬草を見つけ、小さな畑を作った。
失敗の連続だったが、二人で笑い合いながら、少しずつ生活を築いていった。
「ここなら、誰も私たちを邪魔しない」
ルナが、修理を終えた小屋の前で微笑んだ。
「二人だけの、小さな王国だね」
ソルも笑顔で答えた。
二人の顔には、町にいた頃には見られなかった、本当の幸せが浮かんでいた。
『春には花を摘み、夏には川で遊び、秋には木の実を集め、冬には暖炉を囲みました』
四季の移ろいと共に描かれる二人の生活が、温かい色彩で綴られていた。
春の野原で花冠を作るルナ。
夏の川で魚を捕るソル。
秋の森で、落ち葉の中を歩く二人。
冬の夜、暖炉の前で寄り添う姿。
どの季節の絵にも、二人の笑顔があった。
「ねえ、ソル」
冬のある夜、暖炉の前でルナがぽつりと呟いた。
「私、こんなに幸せでいいのかな」
炎に照らされた彼女の顔には、不安の影が浮かんでいる。
あまりにも幸せすぎて、それが壊れてしまうことが怖い——そんな思いが、胸をよぎったようだった。
「当たり前だよ」
ソルは優しく彼女の頭を撫でた。
「君には幸せになる権利がある。僕たちは、何も悪いことをしていない。ただ、一緒にいたいだけなんだから」
* * *
クーレリカは、絵本を捲る手を止め、嘆くように言った。
「結局、幸せになんて……」
沈んだ声が、部屋の闇に吸い込まれていく。
「なれないんだから」
絵本を抱きしめたまま、クーレリカは膝を抱えた。
この先の物語を、彼女は知っている。
何度も何度も読んだから。
それでも——続きを読むのが怖かった。
不安に駆られた今日だからこそ、かもしれないが。
指先が、続きのページを捲る。
そこには、二人の幸せな日々の終わりが描かれていた。
* * *
『三度目の冬が来た頃、森に不吉な声が響きました』
挿絵には、雪に覆われた森が描かれていた。
白銀の世界に、巨大な影が不気味に迫っている。
木々が倒れ、地面が震える。
平穏だった森が、一瞬にして恐怖に包まれていく様子が、一枚の絵に凝縮されていた。
小屋の中で、ルナとソルは身を寄せ合っていた。
「ソル、あれは……」
ルナの声は、振動に掻き消されるほどに小さかった。
窓の外を見つめ、指差すと、そこには——
「災魔だ」
ソルの顔から、血の気が引いていった。
「なぜこんな所に……」
誰も知らない、誰も来ない、深い森。
誰も、助けに来てはくれない。
『助けを呼べる町は遠く、二人きりでは逃げることもできませんでした』
次の挿絵では、小屋から逃げ出そうとする二人が描かれていた。
背後には、徐々に近づいてくる巨大な影。
「ルナ、君だけでも逃げて」
ソルは必死の形相で叫んだ。
手には錆びた斧を握りしめている。
それが災魔に通用しないことは、二人とも分かっていた。
「あなたこそ!」
ルナは首を激しく振った。
「私には戦う力がある」
そう言って、彼女は天角に巻き付けていた布を外した。
隠していた白い角が、雪の中で輝きを放つ。
激しい光を帯び始める。
光属性の術式が、彼女の周囲に展開されていく。
「術式……!」
ソルが今まで目にしなかっただけで、驚くようなことではない。
異能とは術式の駆動に関わる魔導回路の異常発達なのだから、それを持つルナが術式を行使できることは自然なことだ。
それでも、彼女が術式を使わず隠してきたのは、怖がられたくないという想いからだろうか。
「さようなら、ソル」
ルナは泣きそうな心情を堪えて、笑った。
それは、諦めと決意が入り混じった、悲しい笑顔だった。
「あなたと過ごした日々は、宝物だった」
言い終えるや否や、彼女は災魔に向かって駆け出した。
一人、巨大な怪物に立ち向かう小さな背中が、雪の中に消えていく。
『しかし、災魔の力は圧倒的でした』
戦いの場面が、絵本にしては妙に生々しく描かれていた。
ルナの術式は確かに災魔に通用していた。
光の矢が、怪物の体を貫くシーンもあった。
だが、それは致命傷には程遠い。
災魔の一撃で、彼女の小さな体は雪の中に叩きつけられる。
膝をつく少女の姿が、次の挿絵に刻まれていた。
白い雪が、赤く染まっている。
迫る災魔の影が、彼女を飲み込もうとしていた。
血を流しながら、ルナは自らの角を掴んだ。
憎しみと後悔が、彼女の顔を歪める。
「こんなものが無ければ!」
叫び声が、冬の森に響いた。
「この呪いさえ無ければ、普通に生きられたのに!」
涙が頬を伝い、雪の上に落ちる。
力の入らない手で、必死に角を折ってしまおうとする。
血が指の間から流れ落ちていく。
『その時、ソルが戻ってきました』
「ルナ!」
少年の声が、絶望の中で木霊した。
彼は斧を投げ捨て、倒れた彼女の元へ駆け寄る。
「どうして来たの!」
ルナは泣き叫んだ。
「逃げてって言ったのに!」
「君を置いて逃げるくらいなら」
ソルは彼女を抱き起こした。
大きな手で、血に濡れた頬を拭う。
「一緒に死ぬ方がましだ」
その言葉に、ルナの瞳から新たな涙が溢れた。
悲しみと、喜びと、絶望が入り混じった複雑な感情が、胸を締め付ける。
『ソルは泣き叫ぶルナの手を優しく剥がし、白い天角を両手で握りこみました。少し痛いと思うほどに、強く、強く』




