Code:125 絵本『天角の花嫁』①
セティリアと話を終えたクーレリカは、ベッドの上で膝を抱えるようにして座っていた。
思いついたように、枕元に置いてあった古びた絵本を手に取る。
擦り切れた表紙の感触が、掌に馴染んだ。
何度も何度も撫でてきた、母の形見。
色褪せた挿絵——白い角を持つ少女と、金髪の少年が寄り添う姿が、朧げに浮かび上がった。
「お母さん……」
クーレリカは絵本を胸に抱きしめた。
革の匂いと、かすかに残る母の香り。
記憶の中の温もりを探すように、表紙を指でなぞる。
「私、どうすればいいのかな……?」
独り言が、静寂の中に溶けていく。
ゆっくりと表紙を開く。
【天角の花嫁】
最初のページ。
色鮮やかだったはずの挿絵は、今では褪せた色彩となって広がっていた。
灰色の髪に白い天角を持つ少女が、薄幸そうな顔でこちらを見つめている。
クーレリカは深く息を吸い込んで、物語を読み始めた——いや、もう暗記しているはずの文章を、改めて目で追い始めた。
* * *
『むかしむかし、ある王国に、月のように白い角を持つ少女がいました』
最初のページには、城下町の風景が描かれていた。
レンガで舗装された道と、立ち並ぶ家々。
そして、その隅で一人佇む少女の姿。
灰色の髪は風に靡き、頭から伸びる白い天角が、陽光を受けて輝いていた。
しかし、その瞳には、深い悲しみが宿っていた。
『彼女の名前はルナ。生まれた時から額に二本の角を持ち、町の人々は彼女を「呪いの子」と呼んで恐れました』
次のページをめくると、群衆から逃げる少女の姿が描かれていた。
飛び交う石。罵声。恐怖に歪んだ人々の顔。
ルナは涙を流しながら、路地裏へと逃げ込んでいく。
彼女の角は、まるで呪いの象徴のように、絵の中で不吉に光っていた。
『ある日のことです。八百屋の息子ソルが、路地裏で泣いている彼女を見つけました』
新たな挿絵には、薄暗い路地裏で膝を抱えて泣く少女と、その前に立つ金髪の少年が描かれていた。
少年の手には、真っ赤なリンゴが握られている。
優しい笑顔を浮かべる少年と、怯えたように見上げる少女。
二人の間には、まだ見えない壁があるようだった。
「どうして泣いているの?」
少年の声は、春風のように優しかった。
「私に近づかないで」
ルナは顔を背けた。
涙で濡れた頬を、覆い隠すように。
「呪いが映るから……みんなそう言うの。私と関わった人は、不幸になるって」
ソルは首を傾げた。
まるで、そんな話など聞いたこともないというように。
「呪いなんて信じないよ」
彼は屈託のない笑顔で、手に持っていたリンゴを差し出した。
「それより、お腹すいてるでしょ? 朝から何も食べてないんじゃない?」
ルナは驚いたように顔を上げた。
この少年は、自分の角を見ても逃げなかった。
怖がる素振りすら見せない。
それどころか、心配してくれている。
恐る恐るで、リンゴを受け取った。
一口齧ると、甘い果汁が口の中に広がった。
長い間忘れていた、優しさの味がした。
『それから、二人は夜ごと、町外れの古い時計塔で会うようになりました』
挿絵は場面を変え、月明かりの下で寄り添う二人の姿を映し出していた。
古びた時計塔の最上階。
壊れた歯車と、埃を被った機械の間に、小さな空間がある。
そこが、二人だけの秘密の場所だった。
ソルは毎晩、果物や焼きたてのパンを持ってきた。
時には温かいスープを、時には甘いお菓子を。
ルナは母から習った歌を歌った。
澄んだ歌声が、静かな夜に響き渡る。
時計塔の窓から見える星空の下で、二人は他愛もない話をした。
「君の角は、月明かりに照らされて綺麗だね」
ある夜、ソルがぽつりと呟いた。
ルナは反射的に角を手で隠そうとした。
だが、ソルはその手を取って、首を横に振った。
「隠さなくていいよ。本当に綺麗だと思うから」
「そんなこと言う人、初めて……」
ルナの瞳に、涙が光った。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
生まれて初めて流す、喜びの涙だった。
『しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。二人の関係は、やがて町の人々に知られてしまったのです』
次のページには、恐ろしい光景が描かれていた。
松明を持った群衆が、時計塔を取り囲んでいる。
怒号が飛び交い、炎が夜を赤く染める。
時計塔の最上階で、ソルとルナは身を寄せ合って震えていた。
「なんてことだ、呪われた娘に惑わされている!」
誰かが叫んだ。
「あの少年も呪いに侵されてしまう! 早く引き離さないと!」
群衆の最前列に、ソルの父親の姿があった。
八百屋の主人は、息子を見上げて厳しい表情を浮かべていた。
「息子よ、今すぐ降りてきなさい。目を覚ませ。あの娘と関わるな」
父親の言葉が、ソルの胸を貫いた。
でも、彼は首を横に振った。
隣で震えるルナの手を、しっかりと握りしめて。
『その夜、ソルは決意を固めました』
新しい挿絵では、月のない真っ暗な夜、ルナの隠れ家にソルが駆け込む姿が描かれていた。
息を切らし、額には汗が光る。
でも、その目には揺るぎない決意が宿っていた。
「一緒に逃げよう」
ソルは、震える声で言った。
「この町を出て、僕たちだけの場所を見つけよう。誰も僕たちを知らない、新しい場所で暮らそう」
「でも、私といたら、あなたまで不幸に——」
ルナの言葉を、ソルは行動で遮った。
両手で彼女の肩に手を置き、真っ直ぐに目を見つめる。
「君といられない方が、僕には不幸だ」
その瞬間、ルナの心が大きく揺れ動いた。
恐れと不安の壁が、音を立てて崩れ落ちていく。
代わりに、小さな希望の灯が、胸の奥で揺らめき始める音がした。




