Code:111 村に潜む怪異②
トルステンの話が一段落すると、アルトは卓上に広げられた古地図から顔を上げた。
語られた恐怖の正体——巨大な影。
その言葉が示唆するものは、あまりにも明白だった。
「災魔の可能性が高いですね」
静かに紡がれた言葉に、トルステンは深く頷いた。
額に浮かんだ玉のような汗が、揺らめくランタンの灯りを受けて、不安定に光る。
「やはり、そうなのですか……」
絞り出すような声には、対面した恐るべき現実への恐怖が浮き彫りになっている。
クーレリカが身を乗り出す。翡翠色の瞳に、使命感の炎が静かに燃え上がっていた。
「それで、その影を見たという方は、どこにいらっしゃるんですか?」
「彼は今、自宅で休んでおります。あまりの恐怖に、しばらく口もきけない状態でして……」
「外傷はありましたか? 特に、大きな出血を伴うような」
「いえ、幸いにも怪我はありませんでした」
トルステンの説明に、アルトの表情が少しだけ変わる。
その反応は一瞬だったが、何か引っかかるものを感じているのは明らかだった。
しかし、今はそれを口にすることなく、実務的な提案を続ける。
「……分かりました、まずは現場を確認させていただきます」
「よろしくお願いいたします」
「破壊された導力灯の予備品はありますか?」
「それでしたら、先ほど村の男たちを連れて復旧させてきました。災魔に遭遇する危険は承知でしたが、これ以上の災魔の侵入を許すわけにはいきませんので」
「なるほど、助かります。ですが、例の災魔は、おそらく今も導力灯の範囲内に……」
「ええ、そうでしょうね」
窓の外へ向けられた視線の震えは、見えざる脅威への怯えか、或いは諦観か。
どうあれ、ゆっくりしている暇はない。
アルトはDOCを慣れた手つきで操作し始めた。
「DOCの探知機能を使って、村の近くに災魔がいるか調査しましょう。クーちゃん先輩」
突然名前を呼ばれ、クーレリカは反射的に背筋を伸ばした。
「はい!」
「あなたは術式翼で村の周囲を巡回してもらえますか? クーちゃん先輩の機動力なら、広い範囲を素早くカバーできるはずです」
「ふふん、任せて下さいっ!」
「僕は別ルートで森の内部を捜索します。手分けした方が効率的ですから」
「え、でも……」
クーレリカの顔が曇る。
一緒に行動できると期待していたのだろうか。
だが、アルトは任務に余計な私情を挟まない。
それが誰かの命取りになることを、誰よりも理解しているからだ。
「これは、クーちゃん先輩にしかできない仕事です」
その言葉に、クーレリカの頬が仄かに朱く染まった。
特別な役割を与えられた喜びと、分かれることへの不安が入り混じった複雑な表情。
だが、こういう頼まれ方をしては彼女も断れない。
「……分かりました。でも、約束してください」
「何ですか?」
「DOCで常に連絡を取り合うこと。もし災魔が出たら、すぐに教えてください。私、どこにいてもすぐに駆けつけますから」
真剣な眼差しに、アルトは小さく頷いた。
「もちろんです。お互い、気をつけて行きましょう」
* * *
村の外れに広がる森は、夕暮れ時特有の薄明かりに包まれていた。
朝方まで立ち込めていたという霧は既に晴れていたが、湿った土と腐葉土の匂いが、まだ濃密に空気中に漂っている。
山の稜線に向かって傾き始めた太陽が、木々の間から斜めに差し込み、地面に複雑な影絵を描いていた。
『アルトさん、大丈夫ですか?』
DOCから、クーレリカの声が響く。
別れてから、まだ五分と経っていない。
「大丈夫です。そちらは?」
『村の北側を飛行中です。今のところ、異常はありません』
安堵の息遣いが通信機越しに伝わってきた。
しばらくの沈黙の後、再び呼びかけが入る。
『あの、アルトさん』
「はい?」
『災魔と出くわしていませんよね?』
「いませんよ」
アルトは苦笑を浮かべながら答えた。
落ち葉を踏みしめる音を立てないよう慎重に林道を進みながら、DOCの探知機能に意識を集中させる。
画面には周囲の魔導粒子の分布がグラデーションで表示されているが、災魔特有の反応は見当たらない。
『本当に、大丈夫ですか?』
「心配性ですね、クーちゃん先輩」
『心配性じゃありません! 実力を疑うわけではありませんが、あなたはまだ新人なんです! ですから、これは正当な確認作業です!』
むきになった声に、アルトは思わず笑みを深めた。
緊張感のある任務中でも、クーレリカらしさは微塵も変わらないようだ。
『ちゃんと……生きてますか?』
「生きてますよ」
『本当に?』
「本当です」
軽妙なやり取りを続けながら、アルトは着実に森の奥へと歩を進めていた。
表面上は他愛のない会話を交わしているが、その頭脳は全く別の思考回路を高速で回転させている。
(「村長の証言……巨大な影を見たという話」)
足元の湿った落ち葉を踏みしめながら、アルトは冷徹に状況を分析した。
(「一般人が災魔と遭遇して、無傷で逃げ切れる可能性は極めて低い」)
それも、目視できるほどの至近距離で遭遇したというのだ。
災魔の生態を考えれば、普通は助からない。
災魔は魔導粒子を感知する特殊な器官を持っている。
人間の体内を巡る魔導粒子は、彼らにとって蜜のように甘美な誘引物質だ。
一度獲物を捕捉すれば、それこそ地の果てまでも執拗に追跡する。
特に、術式師でない一般人は逃走手段も足止め手段も限られているため、遭遇はほぼ死を意味する。
(「にもかかわらず、目撃者は生きて村に戻ってきた。災魔が村に入っていないということは、追いかけられてすらいないということだ」)
大きな出血を伴う外傷が無い、それが最も引っかかるポイントだ。
(「もし、目撃者が出血を伴う大怪我をしていたなら、あり得ない話ではない。地面に付着した直後の血だまりに残る濃い魔導粒子が囮になって追跡を振り切れたケースは、過去にも事例がある。だが、それは村長の証言で否定された」)
思考を整理しながら、可能性を考察していく。
けれども、頭の中の情報には限りがある。必要なのは、新しい情報。
アルトは分かれ道で立ち止まり、ある方向へと向きを変えた。
目的地は既に決まっている——導力灯が破壊された現場だ。
『アルトさん? どうしたんですか?』
クーレリカの声が、不安げに響く。
「少し、気になることがあって」
『気になること?』
「ええ、ちょっと確認したいことが」
曖昧な返答に、クーレリカは不満そうな息を漏らした。
しかし、それ以上は追及してこない。
彼女なりに、アルトの判断を信頼しているのだろう。
木々の間を縫うように進むうち、アルトの脳裏に、これまでの事件が走馬灯のように蘇ってきた。
(「奴らの出現パターンには、明確な共通点がある」)




