第十一夜 喫茶店
夏の京都は、本当に暑かった。
出張で駅側のビジネスホテルに宿をとり、予定の仕事を終えた後は、のんびりと観光でもしようと考えていたのだが、バスは本数が少なくて混んでいたし、歩いていると、絶え間なく汗が滴り落ちてきた。
自動販売機のコーヒーは、どれもいまいちだった。お茶やジュースもなぁ‥‥
まわりをぐるっと見渡すと、古い喫茶店が見えた。古いが、ガラスは綺麗に磨いて拭かれれていたし、扉の下のマットも綺麗だった。それに、店に近付いただけでコーヒーの良い香りが漂ってきた。
ガラス越しに店内を覗くと、オレンジ色のレトロな照明がぼんやりと浮かんで、昭和歌謡がレコードで流れており、心地よい空間となっていた。
僕は、おそるおそる中へと入っていった。
「いらっしゃい。」
カウンターの中で、白シャツに黒ベストの上品なマスターが、チラッとこちらを見た。
席はカウンターと、小さな二人がけのソファーとテーブルの席が少しあるだけだった。中は思ったよりも狭かった。
僕は入り口に近いカウンター席へ腰掛けた。見開きのメニュー表を見ると、コーヒーやミルク、紅茶に軽食とあり、まあまあ充実していた。
何かオススメは‥と聞こうとしたが、格好をつけずに飲み慣れたアメリカンを頼む事にした。
「すいません。アメリカンを。」
そういうと、マスターは黙って、コーヒー豆を取り出し浅めに煎り始めた。そして、その煎ったコーヒーをゆっくりと抽出して、温めたカップへと、注いだ。
僕は、アメリカンといえば喫茶店のマスターが、鍋かビーカーで温める少し薄いインスタントコーヒーを思い浮かべていたが、そうではなかった事に安心した。
この喫茶店は当たりだ。
マスターは、コーヒーにミルクと砂糖を添えて、僕に渡してくれた。
コーヒーは、苦味や酸味がなく、香り高く、とても美味しかった。
店内は、エアコンはないが、涼しく快適だった。
それにしても、静かだ。
カランカラン。
「いらっしゃい。」
ランニングシャツと短パンを履いた坊主頭の男の子と、少しよれたシャツとズボンを履いた男性の親子が入ってきた。
「ミルクセーキとアメリカンを。」
二人掛けのソファーに腰掛け、静かに過ごす親子。
カランカラン。
「いらっしゃい。」
ハットを被り、少し黄ばんだシャツとベルトできつくしぼったズボンを履いた男性が一人で入ってきた。
「アイスコーヒーを。」
何となくお客さん達に違和感を感じた。ふと、外をガラス越しに覗くと、ビルや建物に囲まれたコンクリート塗装の道はなく、薄い灰色の道路に木造の建物や、鉄筋の建物がまばらに建っていた。
入ってきた時と、外の景色が違う‥。
扉近くのカラーボックスに新聞があった。手に取り見て見ると‥‥
昭和二十七年七月一日‥‥自由党議員総会、福永健司の幹事長起用をめぐり、鳩山派との対立?デモ隊に警察隊?
新聞記事には、明らかに見慣れない文字と出来事が書かれていた。
ああ、そうか、ここは本当に昭和二十七年の世界なのだろう。もはや、疑問に思う事もなくなった。むしろ、そう認めてしまった方が合点がいった。
僕は自分の席へ戻り、ゆっくりと息を吸って吐いた。
落ち着いてから、コーヒーをじっくりと味わい、席を立った。
ふと、財布の中を覗いて困った事に気付いた。
「あの‥‥このお札は使えますか?」
この時代の紙幣の千円札は、板垣退助で、五百円玉はなく、確か岩倉具視の五百円札だった気がした。
その為、今持っている野口英世の千円札を、マスターにおそるおそる見せてみた。
「‥‥大丈夫ですよ。お代は四百十円です。お釣りは、全て硬貨が良いですか?」
「はい。‥お願いします。」
マスターはそう言うと、慣れた様子で現代の五百円と五十円玉、十円玉でお釣りを渡してくれた。
僕が手にした硬貨をじっと見ていると、マスターはにっこりと微笑んで、またカウンターの奥へと戻っていった。
ああ、僕みたいにこの喫茶店の扉を開けて、この世界へ入り込んだ人は、これまでにも何人かいたのだろう。だからマスターは、すぐに僕が違う時代から来た異邦人である事に気付いたのだ。
僕は他のお客様の邪魔にならぬよう、静かに店内を見渡し、しっかりと目に焼き付けてから、名残惜しいが扉を開けて外へと出た。
扉の外は、すでに見慣れた現代の景色へと替わっていた。すぐに後ろを振り向いて、喫茶店の扉を確認してみた。
先程までのレトロな喫茶店の姿はもう無くなっており、かわりに現代らしい「OPEN」の表札がかけられた木造の扉の喫茶店があった。
中を覗いてみると、エプロンをつけた中年の女性が、ドリップ用のプラスチックの容器とビーカーにお湯を注いでいた。
席は普通のテーブル席が所狭しと配置されており、常連らしきお爺さんがサンドイッチを食べていた。
「あの時、お釣りを昔の紙幣や硬貨で貰っておけば良かったかなぁ。」
今になって、もったいない事をしたなぁという気がしてしまった。
それに、キャッシュレス時代とはいえ、現金を持ち歩いていて、本当に良かったなぁなんて思ったりもした。




