計算ずくの男
選挙戦が始まって最初の週、ロニーはギール共和国の北端から南端まで、十二の都市を回った。
演説の内容は毎回同じだった。経済復興の実績。国民への感謝。そして——ギール民主党が長年掲げてきた「寛容と誠実」という言葉を、ロニー自身の口から語ること。
ハルトが選挙事務所で地図を広げながら言った。
「ベック支持層の浸透率、予測より早い。特に中部の農村地帯が反応している」
「農村は肌で景気を感じる。道路が直り、物が動き、収入が増えた。それを誰がやったか、知っている」
「ドヴォルザークは北部都市部で固めてきている。反エスターライヒの感情が強い地域だ」ハルトはペンで地図を叩いた。「そこには入れないな」
「入る必要がない」ロニーは地図を一瞥した。「あの票は最初から捨てている」
ハルトが顔を上げた。「捨てている?」
「ドヴォルザークの票は動かない。動かない票を追うのは時間の無駄だ。それより——」ロニーはベックの支持地域に指を置いた。「ここを全部取る」
ハルトはしばらく地図を見ていた。それから静かに言った。「……今回、勝つ気があるのか?」
ロニーは答えなかった。
ハルトはそれ以上聞かなかった。
同じ頃、ナポリ帝国とヴァルク連邦共和国の関係は、急速に悪化していた。
タレント港湾爆発事件から三ヶ月。ヴァルク側の否定声明にもかかわらず、ナポリ議会では対ヴァルク強硬派が台頭し、経済制裁決議が可決された。ヴァルクは対抗措置として、ナポリへの資源輸出を一部停止した。
グラウからの報告書をロニーは選挙遊説の移動中に読んだ。
ナポリ北部ゲルマン系議員、分離独立法案を議会に提出。否決されたが賛成票が予想を上回った——
ロニーは報告書をファイルに戻した。車窓の外、ギールの農村風景が流れていた。
順調だ。
口の端が、わずかに上がった。
選挙戦の中盤、ドヴォルザークが動いた。
北日本推進党の大規模集会。ドヴォルザークは壇上で、老いた体に似合わぬ力強い声で叫んだ。
「ロニー・フォン・エスターライヒを見ろ! あの男の父親が何をしたか、皆さんは知っているはずだ! エスターライヒ家はこの地を支配し、民衆を踏みにじった! その血が、今また権力を求めている!」
群衆が呼応した。
「経済復興? そうだ、数字は良くなった。しかしそれは同盟からの借金だ! いつか返済を迫られる! その時、あの男はどうする! エスターライヒ家の本能のままに——独裁だ! 帝国の復活だ!」
翌日、世論調査でドヴォルザークの支持率が四ポイント上がった。
エルヴィンが青い顔で執務室に飛び込んできた。
「兄さん、ドヴォルザーク議員が——」
「見た」
「反論しないと! このままじゃ——」
「エルヴィン」ロニーは書類から目を上げた。「あの演説を聞いた人間のうち、何パーセントが最初からドヴォルザーク支持者だと思う」
エルヴィンは黙った。
「八十パーセント以上だ。残りの二十パーセントは、どんな反論をしても動かない層だ」ロニーは言った。「正面から反論すれば、俺がドヴォルザークを恐れているように見える。無視すれば、余裕があるように見える」
「じゃあ……何もしないの?」
「演説を続ける。内容は変えない」
エルヴィンはしばらく立っていた。それから、小さく言った。「兄さんって、本当に怖いよ」
ロニーはすでに書類に目を戻していた。
選挙戦の終盤、アーシャが選挙事務所に現れた。
私服だった。ハルトとエルヴィンが顔を上げ、ロニーは書類を読みながら言った。
「来るとは思っていなかった」
「通りかかった」アーシャは椅子に座った。「嘘だけど」
エルヴィンが笑った。ハルトは苦笑した。
アーシャはロニーを見た。「選挙、どうなると思ってる」
「決選投票になる」
「自信があるな」
「予測だ」
アーシャは少し考えてから言った。「ドヴォルザークに負けるかもしれないぞ、一回目は」
「そうかもしれない」
「悔しくないのか」
ロニーは初めて書類から目を上げた。アーシャを見た。
「レースの一コーナーで二位にいることを、悔しいと思うか」
アーシャはしばらくロニーを見ていた。それから、小さく笑った。
「相変わらずだ」
「お前も変わっていない」
アーシャは立ち上がり、帰り際に言った。「決選投票、勝てよ」
「勝つ」
扉が閉まった。
ハルトがロニーを見た。その目が何かを言いかけて、止まった。
投票日の夜、ロニーは選挙事務所で開票速報を見ていた。
エルヴィンは画面を食い入るように見ている。ハルトは腕を組んで静かに立っている。スタッフたちが数字を読み上げるたびに、事務所がざわめく。
開票率九十二パーセント。
ドヴォルザーク——四十・一パーセント。
ロニー——三十五・三パーセント。
ベック——二十四・六パーセント。
エルヴィンが息を吐いた。「二位……決選投票だ」
スタッフの一人が「決選投票進出おめでとうございます」と声をかけた。事務所に拍手が起きた。
ロニーは画面を見ていた。
四十・一パーセント。三十五・三パーセント。二十四・六パーセント。
ベックの票が、次は動く。
ハルトがロニーの隣に来て、小声で言った。「ベックの支持層、決選投票では——」
「全部来る」ロニーは静かに言った。「ベックはエスターライヒ家の政界参加を認めた男だ。彼の支持者は寛容を信じている。ドヴォルザークには絶対に入れない」
ハルトは頷いた。計算は合っている。合っているが——
「ロニー」ハルトは言った。「お前、最初からこの結果を狙っていたな」
ロニーは答えなかった。画面の中で、アナウンサーが興奮した声で「史上初の決選投票へ」と叫んでいた。
エルヴィンがロニーの腕を掴んだ。「兄さん! 決選投票だよ! 勝てる!」
ロニーはエルヴィンを見た。その弟の顔——純粋な喜び、興奮、信頼。
お前は何も知らなくていい。
そう思いながら、ロニーは珍しく、エルヴィンの肩に手を置いた。
「ああ」と言った。
事務所の歓声の中で、ロニーはもう一度画面を見た。
数字が、自分の計算通りに並んでいた。
口の端が上がった。誰にも気づかれないくらい、わずかに。
しかしその目は笑っていなかった。ただ、静かに燃えていた。
始まりに過ぎない。




