N=0
復興計画が動き始めて四ヶ月が経った。
道路工事の音が、首都ヴェルナの至るところで響いていた。失業者が工事現場に並び、賃金を受け取り、食料を買う。単純な循環だ。しかしその単純さが、今のギール共和国には必要だった。
「失業率、二十四パーセントまで下がりました」
エルヴィンが報告書を読み上げながら執務室に入ってきた。その顔には隠しきれない喜びがある。
「インフラ修復の進捗は四十二パーセント。予定より三週間早いです。現場の士気が高くて——」
「食料価格の推移は」
「え? あ、ええと——」エルヴィンはページをめくった。「主要品目、平均で十一パーセント下落です」
「輸送コストが下がったからだ。道路が直れば物が動く。物が動けば価格が下がる。当然の結果だ」
エルヴィンは報告書を下ろして兄を見た。「……兄さんって、喜ばないの? 数字、良くなってるのに」
「予定通りだからだ」
「予定通りでも、嬉しくない?」
ロニーは書類から目を上げなかった。「喜ぶのは予定を超えたときだ」
エルヴィンは小さくため息をついた。それから、思い出したように言った。「あ、そうだ。面会希望者が来てます」
「誰だ」
「ドヴォルザーク議員です」
ロニーは初めてペンを止めた。
カレル・ドヴォルザークは、応接室のソファに深く座っていた。ロニーが入室しても立ち上がらなかった。老議員なりの示威だろう。
ロニーは気にせず向かいに座った。
「何の用ですか、議員」
「単刀直入に言おう」ドヴォルザークは皺の刻まれた目でロニーを見た。「復興計画を止めろ」
「理由を」
「同盟の融資には条件がついている。表向きの契約書には書かれていないが、経済が回復した段階で、同盟はギールの内政に干渉する権利を主張してくるはずだ。歴史がそれを証明している」
ロニーは静かに聞いていた。
「お前がエスターライヒ家の人間である以上、同盟はお前を排除しようとする。その前に、融資を断り、独自の復興計画を——」
「議員」ロニーは遮った。「それは正しい懸念です」
ドヴォルザークが目を細めた。
「しかし」ロニーは続けた。「同盟が内政干渉を主張する前に、同盟が存在しなくなるとしたら?」
沈黙が落ちた。
「……何が言いたい」
「何も」ロニーは立ち上がった。「懸念は承りました。引き続き、ご監視ください。議員のような方が野党にいることは、民主主義の健全さの証明です」
ドヴォルザークはロニーの背中を見つめた。その目に、初めて警戒以上のものが宿った。
この男は何かを知っている。
その夜、ロニーは地下の小会議室にいた。
同席しているのは二人だけ。ハルトと、もう一人——地味なスーツを着た、顔の印象が薄い中年男性。工作部門の責任者、コードネーム「グラウ」。灰色を意味する名だ。
「N=0、現状報告を」
グラウは淡々と話し始めた。
「ナポリ帝国北部、ゲルマン系民族居住区への思想浸透工作、進捗六十パーセント。民族自決の機運は予定通り醸成されています。ヴァルク連邦内の分離独立運動、三件に対して間接的な資金援助を開始。両国の外交チャンネルでは、先月から摩擦が三件確認されています」
「テロ工作の準備は」
「第一弾の実行準備が整っています。ヴァルクの工作員に偽装し、ナポリ帝国の港湾施設を標的とします。死者は出さない規模で——」
「死者を出せ」
グラウが初めて表情を動かした。ハルトも顔を上げた。
「死者なしでは、本物のテロに見えない」ロニーは続けた。「ナポリが本気で怒るためには、血が必要だ。ターゲットは軍の施設にしろ。民間人は避けろ。だが軍人の死者は必要だ」
ハルトが口を開いた。「……ロニー、それは」
「作戦の話をしている」
ハルトは黙った。その顔に、初めて迷いが見えた。
グラウは頷いた。「了解しました。修正します」
「それともう一つ」ロニーはグラウを見た。「第三層——メディア工作の計画書を出せ」
グラウはファイルを取り出した。ロニーはそれを一読し、テーブルに置いた。
「これは不要だ」
ハルトが眉を上げた。「なぜ。第三層がなければ他の同盟国への波及が——」
「二大国がテロを疑い始めた時点で、周辺国は自分たちで動く」ロニーは言った。「他国にとって、不安定な大国は脅威だ。我々が工作しなくても、彼らは自分の利益のためにナポリとヴァルクを孤立させる。人間は、自分の利益のためなら我々より上手く動く」
沈黙。
ハルトはしばらく考えてから、静かに言った。「……確かに、そうだな」
「余計な工作は痕跡を残す。N=0は、最後まで我々の関与を悟られてはならない」
グラウは第三層の計画書を静かにファイルに戻した。
翌朝、ロニーが議会棟の廊下を歩いていると、声をかけられた。
「久しぶり」
振り返ると、軍服を着た女性が立っていた。
短く切り揃えた黒髪。背筋が定規で引いたように真っ直ぐだ。顔には感情が出ていない。しかし目だけは、昔と変わっていなかった。
「アーシャ」
「大臣閣下、と呼ぶべきか」アーシャ・クレインは言った。皮肉の色がわずかにある。
「随分偉くなったな」
「お前も。軍人学校首席と聞いた」
「情報が早いな」
「仕事だ」
アーシャは少し笑った。中学の頃と同じ笑い方だった。「相変わらずだ、お前は」
二人は並んで廊下を歩いた。軍と政府の定期連絡会議のため、アーシャはこの建物に来ていた。
「復興計画、見た」アーシャが言った。「上手くいってるな」
「予定通りだ」
「それを普通、上手くいってると言う」
ロニーは答えなかった。アーシャはそれ以上追わなかった。昔からそういう女だった。聞いてはいけないことを、空気で察する。
廊下の分岐点で、二人は立ち止まった。
「また会う機会はあるか」アーシャが言った。
「あるだろう」
「楽しみにしておく」
アーシャは敬礼し、廊下を曲がって消えた。
ロニーはその背中を見送った。
使える。いや——
彼は思い直した。
信頼できる。それは、別の話だ。
その区別を、ロニーが設けることは珍しかった。
夜、執務室でエルヴィンがカップを二つ持って入ってきた。もはや習慣になっていた。
「アーシャさんと会ったんでしょ」エルヴィンは言った。「廊下で見かけた」
「そうだ」
「どうだった?」
「変わっていなかった」
エルヴィンはロニーの前にカップを置きながら言った。「昔、三人でよく遊んだよね。アーシャさんと、兄さんと、俺で」
「遊んだか?」
「遊んでた。兄さんの記憶では遊んでないことになってるの?」
「俺の記憶では、お前とアーシャが遊んでいて、俺は本を読んでいた」
エルヴィンは笑った。「それ、遊びに来てたんじゃないじゃん」
ロニーはカップを手に取った。窓の外を見た。今夜は先週より、明かりが増えている。電力の復旧が進んでいる証拠だ。
「エルヴィン」
「うん?」
「五ヶ年計画が完了したとき、この国はどうなっていると思う」
エルヴィンは少し考えた。「……良くなってると思う。国民が笑えるようになってると思う」
「そうだな」
「兄さんは?」
ロニーは答えなかった。窓の外の明かりを見つめていた。
エルヴィンはその横顔を見て、何も聞かなかった。




