ロニーという男
この作品は架空の世界を舞台にした政治・戦略小説です。実在の国家・人物とは一切関係ありません。
議会の廊下は、いつも人間の本性を映す鏡だった。
「また来やがった」
声は背後から聞こえた。振り返る必要もない。ロニー・フォン・エスターライヒは歩みを止めず、ただ前を見ていた。
「敗戦王子が大臣とはな。ギール共和国も落ちたものだ」
「父親は首を晒されたくせに、よく恥ずかしくもなく顔を出せるな」
囁きが廊下に溶けていく。ロニーはそれを聞きながら、内心で静かに数えていた。反対派、十一人。賛成派、七人。中立、三人。就任を阻もうとした連中の顔と名前は、前夜にすべて記憶した。
使えるかどうかは、これから判断する。
隣を歩くエルヴィンが、小声で言った。
「兄さん、聞こえてるよね。気にしないの?」
「聞こえている」
「それだけ?」
「それだけだ」
エルヴィンは困ったように眉を寄せた。弟はいつもそういう顔をする。感情が顔に出る。実に人間らしい。ロニーは内心でそう思いながら、歩みを緩めなかった。
扉が開いた。議場に入った瞬間、空気が変わった。拍手はまばらだった。ある議員は露骨に腕を組み、ある議員はそっぽを向いた。最前列、カレル・ドヴォルザークが鋭い目でロニーを見ていた。五十代の老議員。民主化運動の生き残り。エスターライヒ家への憎悪を、五十年かけて政治信念に昇華させた男だ。
厄介な人間だ。信念のある人間は、利益で動かせない。
ロニーは演壇に立ち、議場を一望した。
「ギール共和国経済大臣、ロニー・フォン・エスターライヒ。就任いたします」
声は静かだった。怒鳴る必要も、媚びる必要もない。
就任から三日後、ロニーは執務室で資料を広げていた。
大戦から五年半、戦後から何年も経ったのにも関わらず、全く経済成長が見込まれなかった。旧エスターライヒの心臓部、ヴェルナはそこら辺の街に成り下がっていた。
失業率三十一パーセント。インフラ損壊率六十八パーセント。対外債務、GDP比二百四十パーセント。主要産業稼働率、十二パーセント。
「……改めて見ると酷いな」
エルヴィンが資料を覗き込みながら呟いた。目に感情が滲んでいる。数字の向こうに、飢えた国民の顔を見ているのだろう。
「酷い、か」ロニーはペンを回しながら言った。「俺には更地に見える」
「更地?」
「壊れたものは設計し直せる。中途半端に残った旧体制の残骸がないほうが、思い通りに組み立てられる」
エルヴィンはしばらく黙っていた。それから静かに言った。「兄さんって、たまに怖いよ」
ロニーは答えなかった。白紙に書き始めた。
「ギール共和国経済復興五ヶ年計画」
翌日、ロニーは大学時代の旧友を執務室に呼んだ。
ハルト・ヴァイスは部屋に入るなり、机の上に広げられた資料を一瞥し、すぐに理解した顔をした。
「呼ばれると思ってた」
「座れ」
ハルトは椅子に座り、復興計画の草案を手に取った。しばらく無言でページをめくり、やがて顔を上げた。
「資金源はどうする。この規模、国内では賄えない」
「同盟から借りる」
ハルトの眉が上がった。「同盟から? 足元を見られるぞ。事実上の属国になりかねない」
「そう思わせておけばいい」
「……どういう意味だ」
ロニーはハルトを見た。この男は頭がいい。説明すれば理解する。しかし今は、説明する必要がない部分がある。
「融資を受け、復興する。それだけだ。契約書の名義は必ず、同盟名義にする。そこだけ覚えておいてくれ」
ハルトは何かを察したように口を閉じた。それ以上聞かなかった。この男の優秀さは、聞くべきでないことを聞かない判断力にもある。
「わかった。計画の精度を上げる手伝いをする」
「頼む」
計画の発表は、国民に衝撃を与えた。
議会でドヴォルザークが立ち上がった。
「同盟からの借金で復興など、売国行為だ!エスターライヒ家の人間に、この国を売り渡すつもりか!」
議場がざわめいた。ロニーは静かに立ち上がった。
「では議員、あなたは国民に今夜も飢えて眠れと言うのですか」
「そういう問題では——」
「私は数字と向き合っています。イデオロギーではなく。ギール共和国に今必要なのは、理想論ではなく、来月の食料です」
拍手が起きた。最初は少数だった。やがて広がった。
ドヴォルザークはロニーを睨んだまま、座った。その目には憎悪ではなく、警戒があった。
この男は馬鹿ではない。
ロニーはそう思いながら、拍手を聞いていた。表情は変えなかった。
その夜、ロニーは一人執務室に残った。
机の上には二種類の書類が並んでいた。一つは経済復興計画書。もう一つは、表紙に何も書かれていない薄いファイルだった。
彼はそのファイルを開いた。中には、ナポリ帝国とヴァルク連邦共和国の国内民族構成、主要政治家の人間関係、両国間の外交摩擦の記録が整理されていた。
ドアがノックされた。
「兄さん、まだいるの」
エルヴィンだった。ロニーはファイルを引き出しに入れた。
「入れ」
エルヴィンは盆に湯気の立つカップを2つ載せて入ってきた。1つをロニーの前に置き、もう1つを持って向かいに座った。
「議会、上手くいったね」エルヴィンは言った。「ドヴォルザーク議員、怖かったけど」
「あの男は正しいことを言っている」
エルヴィンが目を丸くした。「え?」
「同盟から借金をすることへの警戒は、正論だ。ただ——」ロニーはカップを手に取った。「正しいことを言う人間が、正しい結論に辿り着くとは限らない」
エルヴィンはしばらく考えてから、言った。「兄さんの言ってること、時々わからなくなる」
「わからなくていい」
「それも怖い」
ロニーは珍しく、わずかに口の端を緩めた。
窓の外、ギール共和国の夜景が広がっていた。まだ電力の復旧していない区画は暗く、街はまだら模様だった。
父上、あなたが作ったものは壊れた。だが——
ロニーは暗闇を見つめた。
俺が作り直す。もっと、完璧に。
夜は長い。やることは山ほどある。




