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すれ違い

 作戦は、静かに始まった。


 深夜のブダペスト郊外。雪が降っていた。

 グラウが率いる二十三名の工作員が、闇の中を移動していた。全員私服。全員武装。全員、自分たちがエスター帝国の人間だと証明するものを持っていなかった。

 ベイリー・ロバートの自宅とされる屋敷。石造りの二階建て。灯りが一階に1つ、ついていた。

 グラウは手信号で部隊を三手に分けた。正面、裏口、窓。同時に動く。

 合図が出た。

 部隊が動いた。

 屋敷に入った瞬間、グラウは悟った。

 人の気配がない。

 家具はあった。食器もあった。しかし——生活の温度がなかった。

 グラウが叫んだ。

「罠だ、撤退——」

 その声が終わる前に、屋敷の外で光が溢れた。

 探照灯だった。複数の方向から、一斉に屋敷を照らした。

 銃声が響いた。

 包囲されていた。



 翌朝、ヴェルナの執務室にグラウからの報告が届いた。

 工作員、三名死亡。七名捕縛。残りは辛うじて脱出。ロバートの所在、依然不明。

 ロニーは報告書を読んだ。

 机に置いた。

 何も言わなかった。

 ハルトが隣で静かに言った。「情報が漏れていた」「わかっている」「どこから——」「わからない」

 ロニーは立ち上がり、窓の外を見た。

 ヴェルナの朝が広がっていた。いつもと変わらない朝だった。



 その日の午後、EUから声明が出た。


「エスター民主帝国による、ヨーロッパ連合加盟国領土内での武装工作員の活動が確認された。これは明白な主権侵害であり、国際法違反に当たる。我々は強く抗議する」


 声明には証拠が添付されていた。捕縛された工作員の尋問記録。使用された武器の照合結果。侵入ルートの詳細。

 完璧だった。

 ハルトが報告書を読みながら言った。「罠だったんじゃない。最初から待っていた」「そうだ」「ロバートの住所情報を流したのは——」「デイヴィッドだ」

 ロニーは静かに言った。それ以上は言わなかった。

 国際社会の反応は速かった。中立国が相次いで批判声明を出した。いくつかの国がエスターへの外交圧力を示唆した。

 ロニーは書類を一枚一枚読みながら、思った。

 一手、読み負けた。



 ブダペストの総督府。


 アレン・デイヴィッドは報告を聞きながら、窓の外を見ていた。

 捕縛した工作員の数。国際社会の反応。エスターの外交的孤立の深まり。

 報告が終わった。

 デイヴィッドは目を閉じた。

 ついに、この時が来た。

 その言葉が、胸の中で静かに響いた。



 ルイス・エイデンが十四歳の時。


 両親に呼ばれた夜のことを、よく覚えている。

 父は珍しく緊張した顔をしていた。母は目を赤くしていた。

「ルイス」父は言った。「お前に話さなければならないことがある」

 テーブルの上に、一枚の古い写真が置かれた。集合写真だった。背景に、エスターライヒの旗が見えた。

「我々の家系は、エスターライヒ家と血が繋がっている。遠い縁だが——確かな縁だ」

 ルイスはその写真を見た。

 エスターライヒ家。あの王国の。

 誇りだと思った。本当に、そう思った。

 その夜は眠れなかった。興奮していた。自分の中に、あの偉大な王家の血が流れているという事実が、ルイスを満たしていた。


 しかしそれから三年後、ユリウス・エスターライヒが処刑された。

 ルイスは画面の前でその映像を見た。

 群衆の罵声。処刑台。王が、あっけなく死んだ。

 誇りが、その瞬間に変質した。

 エスターライヒの血。それはもはや誇りではなかった。烙印だった。敗北の、愚かさの、烙印だった。

 父の夢は何だったか。外交で世界を変える。そんな理想論で、この男は死んだ。

 ルイスはその夜、誓った。

 あの家の名前を、俺は認めない。



 ヴェルナ中央大学。ルイスが十八歳の時。


 成績は常に首位だった。努力した。誰よりも努力した。しかし——一人だけいた。

 ロニー・フォン・エスターライヒ。

 廊下でその男を初めて見た時、ルイスの中で何かが燃えた。

 敗戦王子。首を晒された王の息子。それがこの大学にいる。

「敗戦王子か」ルイスは言った。

 ロニーは歩みを止めなかった。

「首を晒された王の息子が、よくここに顔を出せるものだ」

 ロニーが振り返った。その目に、怒りはなかった。計算があった。それがルイスには、何より腹立たしかった。

「父の話をするなら、正確にしろ」

「正確に言っている。ユリウス・エスターライヒは理想論者だった。だから負けた。その血を引くお前も——同じだ」

「チェスをするか」ロニーは言った。

 ルイスは笑った。「いいだろう」


 対局が始まった。

 ルイスは全力で攻めた。持てる全てを使った。序盤から主導権を握り、中盤で盤面を支配した。

 ロニーは守り続けた。

 反撃しなかった。ただ、耐えた。

 四十七手目。

 ルイスの手が止まった。

 盤面を見た。もう一度見た。

 いつの間にか、包囲されていた。守りに見えた駒が、全て罠だった。

「負けだ」ロニーは静かに言った。

 ルイスは盤面を見たまま、動けなかった。

 出口がなかった。どこにも、なかった。

 周囲の学生たちの視線が刺さった。

 ルイスはゆっくりと顔を上げた。ロニーを見た。

 その目が——落ち着いていた。勝ったことへの喜びも、優越感も、なかった。ただ、静かに、次のことを考えているような目だった。

 それが、何より深く刺さった。

「お前は……本当に、エスターライヒの血か」

「そういうことだ」ロニーは立ち上がった。

 ルイスはその背中を見た。

 違う。

 俺が負けたのではない。

 俺はまだ、本当の戦いをしていない。

 追いついてやる。

 真のエスターライヒが誰かを、証明してやる。

 ロニーではなく——俺が。


 ルイス・エイデンは大学を去った。父の出身地、ハンガリア地域へ向かった。

 振り返らなかった。



 記憶が、薄れた。


 アレン・デイヴィッドは窓の外を見ていた。

 ブダペストの空は青かった。

「ロニー」デイヴィッドは静かに言った。誰にでもなく。「お前はまだ、俺が誰かを知らない」

 口の端が上がった。

「もう少し、楽しませてくれよ」



 同じ頃、ヴェルナとは遠く離れた場所で、別の歴史が動いていた。


 中東王国の王宮。

 ハサン・シャリフ国王は地図を広げ、側近たちと向かい合っていた。

 五十代の男だった。白い衣をまとい、目に静かな知性があった。長年、外交によって中東王国を守ってきた男だ。

「エスターが東アジアを取った」ハサンは言った。「EUがヨーロッパとシベリアを取った。このまま放置すれば——」

「世界が2つに割れます」側近が言った。

「割れるだけならまだいい」ハサンは言った。「問題は、我々がどちらかに飲み込まれることだ」

 地図の上に、エスターとEUの勢力圏が色で示されていた。その間に挟まれるように、中東王国があった。

「大エベレスタン連邦共和国と、中央アジア合衆国に連絡を取れ。南北アメリカの諸国にも。我々だけでは動けない。しかし——集まれば、違う」

「新たな協商ですか」

「そうだ」ハサンは言った。「戦争ではない。外交だ。この世界に、まだ外交が生きていることを証明する」



 数週間後、ハサン・シャリフはヴェルナを訪れた。


 ロニーは応接室でハサンを迎えた。

 二人は向かい合った。

「新世界協商」ロニーは先に言った。「知っている」

「そうだろう」ハサンは穏やかに言った。「隠すつもりもなかった」

「目的は」

「勧告だ」ハサンは言った。「これ以上の侵略行為をやめるように。エスター民主帝国が今の道を続ければ、新世界協商は対抗措置を取る。それを伝えに来た」

 ロニーはハサンを見た。

 この男は本物だ。圧力ではなく、言葉で来ている。それはこの男が、まだ言葉を信じているからだ。

「措置とは」

「経済封鎖。外交孤立。そして——必要であれば、集団的自衛権の行使だ」

 ロニーは少し間を置いた。

「考える時間を」

「一ヶ月だ」ハサンは立ち上がった。「陛下、あなたは優秀な方だ。だからこそ、言う。優秀な人間は、時に自分の優秀さに囚われる。それが最も危険だ」

 ハサンは一礼し、退室した。

 ロニーは一人、応接室に残った。



 夜、執務室でロニーは窓の外を見ていた。

 書類には手をつけていなかった。

 初めてだった。

 エルヴィンには裏切られ、計画は失敗し、気づけば、国民は俺の言葉を信じていた。

 俺は一体、何をしているんだ。

 その問いが、浮かんだ。

 父の仇を打ちたかったのか。世界を征服して優越感に浸りたかったのか。それとも、ただ——自分が誰よりも優れていると、証明したかったのか。

 エスターライヒ再興。その言葉は今も正しいと思っている。しかし——

 ロニーは目を閉じた。

 父の笑顔が浮かんだ。処刑台で遠くを見ていた目が浮かんだ。エルヴィンが扉の前で立ち止まった背中が浮かんだ。ハサンの言葉が聞こえた。優秀な人間は、時に自分の優秀さに囚われる——

 ロニーは目を開けた。

 ハサンは言葉を信じていた。それは誰かに似ていた。



 ハルトが執務室に入ってきたのは、深夜だった。

 書類を一枚も開いていないロニーを見て、何も言わなかった。

 椅子に座り、しばらく黙っていた。

 ハルトは思った。

 お前は今、境界線の上に立っている。

 怪物と、正義の境界線の上に。

 一歩踏み出せば、戻れない。

 しかし——お前はもう、半歩踏み出しているかもしれない。

 ハルトはロニーに、何も言わなかった。言えなかった。

 ただ、隣にいた。



 アーシャが来たのは、それからさらに一時間後だった。

 ドアを叩かず、そのまま入ってきた。昔からそういう女だった。

 ロニーを見た。ハルトを見た。部屋の空気を読んだ。

 椅子を引いて、ロニーの向かいに座った。

「1つ言っていいか」アーシャは言った。

「言え」

「お前は天才だ」アーシャは静かに言った。「戦略の才能は本物だ。それは誰も否定できない」

 ロニーは答えなかった。

「でも」アーシャは続けた。「これ以上はやめたほうがいい」

「理由を」

「大学の時から、ずっと見ていた」アーシャは言った。「お前はいつも、暗闇を見ていた。私が本を読んでいると言っていたが——あれは本を読んでいたんじゃない。暗闇を見ていたんだ」

 ロニーは動かなかった。

「勝つたびに、お前の中から何かが消えていく」アーシャは言った。「あなたはユリウスの亡霊じゃない。そしてエスターライヒ再興の義務も背負ってない」

 アーシャは言葉を切った。

 ロニーは窓の外を見た。

「関係ない」ロニーは静かに言った。

「ある」アーシャは言った。「お前に関係ある。ハルトにも、私にも」

 沈黙が落ちた。

 ロニーはしばらく窓の外を見ていた。

 やがて、低く言った。

「……俺は一体何者なんだ」

 アーシャはロニーを見た。それ以上は言わなかった。

 立ち上がり、扉に向かった。

 扉の前で、振り返らずに言った。

「お前は怪物じゃない。そう信じている」

 扉が閉まった。

 ハルトがロニーを見た。ロニーは窓の外を見ていた。

 その横顔に、今まで見たことのない何かがあった。

 怒りでも、計算でもない。

 もっと古いところにある、何かだった。

 ハルトはそれを、何と呼ぶべきかわからなかった。

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