光と影
広場は、人で溢れていた。
ヴェルナ中央広場。かつてロニーが大統領就任を宣言した場所。かつてデモ隊が「帝国主義者」と叫んだ場所。
今日は違った。
見渡す限り、人だった。老人、若者、子供、兵士。帝国の旗を手に持つ者、ロニーの肖像画を掲げる者、ただ泣いている者。
演台の上、ロニーは群衆を見渡した。
実に、御しやすい。
その思考が、今や反射のように浮かぶ。感情ではなく、計算として。
「エスター民主帝国の国民よ」
マイクを通した声が、広場に響いた。静寂が落ちた。
「我々は勝った」
歓声が上がった。ロニーは一拍待った。
「東アジア大戦において、我々は四カ国同盟を打ち破った。北京を制圧し、台湾を制圧し、大東亜国を降伏させた。これは、皆さんの勝利だ」
歓声が大きくなった。広場の端まで、波のように広がった。
「しかしこれは、終わりではない」
広場が静まった。ロニーの声が、その静寂に落ちた。
「エスターライヒ再興は、目前だ。かつて我々の父祖が築いた国家を、我々の手で取り戻す。その日は、もう遠くない」
誰かが泣き始めた。最前列の老人だった。肩を震わせ、声を殺して泣いていた。隣の女が腕を掴み、同じように泣いていた。
「世界は今、我々の力を認め始めている。いずれこの世界のすべての国が、エスター民主帝国の前にひれ伏す日が来る。世界統一、それは夢ではない。我々がそれを成し遂げる」
観衆は皆、ロニーの手中にあるとエルヴィンは考え、冷たい風が彼を襲った。
「しかし、ハンガリア国、いやEUがそれを邪魔してきた。我々は美しい過去を取り戻す必要がある。私たちはまた国境を越える。そして地図を塗り替える」
広場が割れた。
歓声ではなかった。
咆哮だった。
群衆の中で、一人の少女が演台を見上げていた。十二、三歳だろうか。両手を胸の前で組み、目に涙を浮かべ、唇を動かしていた。声は出ていなかった。しかしその口の形は、はっきりと読めた。
——神様。
ロニーにはその少女の姿が見えなかった。
見えていたとしても、それを数字として処理しただろう。
しかし演台の脇に立っていたハルトには、見えた。
式典が終わり、群衆が散り始めた頃も、広場に残る者がいた。
演台を見つめたまま動かない者。地面に膝をついて頭を垂れている者。
一人の男が声を上げていた。中年の男だった。周囲に向かって叫んでいた。
「EUめ、我々の皇帝に逆らうとはどういうことだ! 占領地の連中も同じだ、反乱分子は全員——」
周囲の者たちが頷いた。
「そうだ」「皇帝陛下のご意志に逆らう者は」「皆殺しにしろ」
誰も笑っていなかった。本気だった。
ハルトはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
執務室に戻る廊下で、ハルトはロニーの隣を歩いた。
ロニーは前を向いたまま歩いていた。表情は変わっていなかった。
「演説、よかった」ハルトは言った。
「予定通りだ」
ハルトは少し間を置いた。
「広場に残っていた連中を見たか」
「見ていない」
「占領地の反乱分子を皆殺しにしろと言っていた」
ロニーは歩みを止めなかった。
「国民が熱狂するのは想定の内だ」
「虐殺を支持しているんだぞ」
「ハルト」ロニーは静かに言った。「大衆は常に、権力の言葉を増幅させる。俺が『守る』と言えば、彼らは『殺す』と解釈する。それが民主主義の本質だ」
ハルトは答えなかった。
ロニーは続けた。「俺にできるのは、その増幅を計算に入れることだけだ」
「……お前は」ハルトは言った。「恐ろしいな」
「以前も言っていた」
「今日は意味が違う」
ロニーは答えなかった。廊下の角を曲がり、執務室へ向かった。
ハルトはその背中を見ながら、思った。
お前はいつから、自分を国家だと思い始めた。
同じ頃、ヴェルナの旧市街。
薄暗い集会所に、十数人の男女が集まっていた。
上座に座る老人——カレル・ドヴォルザークは、机の上に新聞を広げていた。
見出しが躍っていた。「皇帝陛下、東アジア大戦の大勝利を宣言」「エスターライヒ再興へ、国民熱狂」
その隣に、小さな記事があった。「皇帝実弟エルヴィン殿下、EU側に」
ドヴォルザークはその記事を指で叩いた。
「これを見ろ」
集まった者たちが新聞を覗き込んだ。
「皇帝の実弟が寝返った。それ自体は我々には関係ない。しかし——」ドヴォルザークは新聞を裏返した。「今朝の帝国報道局の発表を見ろ。この記事の続報は、もう出ない」
一人が言った。「検閲ですか」
「報道の自由の『一部制限』だそうだ」ドヴォルザークは静かに言った。「帝国の威信に関わる報道を規制する、という名目でな」
集会所が静まった。
「民主帝国」ドヴォルザークは続けた。「笑わせる。民主主義を名乗りながら、報道を縛る。民衆の声を借りながら、民衆の目を塞ぐ。これが奴の言う民主主義か」
誰も笑わなかった。
「エスターライヒ家への批判は昔からだ。今に始まったことではない。しかし今回の東アジア大戦——あれは侵略戦争だ。正当な理由など、どこにもない。旧エスターライヒの領土回復? 笑い話だ。かつての領土を取り戻すために他国を侵略し、何万人を殺した」
一人の若い男が言った。「しかし国民は支持しています。今日の演説でも——」
「だから危険なんだ」ドヴォルザークは男を見た。「国民が支持しているから正しい、というのが民主主義の最大の欺瞞だ。大衆は熱狂する。熱狂は思考を止める。思考が止まれば、虐殺でも支持する」
集会所が静まり返った。
ドヴォルザークは全員を見渡した。
「我々ギール共和団は、まだ小さい。ロニー・フォン・エスターライヒはおそらく、我々を取るに足らない集団だと思っているだろう。それでいい。今は種を蒔く時だ」
「何をするつもりですか」
「まず、記録だ」ドヴォルザークは言った。「帝国が何をしたかを、消えない形で残す。報道が縛られるなら、我々が伝える。侵略の実態を。占領地の声を。報道制限の事実を」
誰かが言った。「危険ではないですか。帝国に知られれば——」
「知られてもいい」ドヴォルザークは静かに言った。「俺はもう老い先短い。しかしこの記録は残る。いつか——この帝国が終わった時に、誰かが読む」
集会所に沈黙が落ちた。
ドヴォルザークは新聞を畳んだ。
「民主主義は、熱狂の中で死ぬ。しかし死んだものは、また生き返る。俺はそれを信じている」
窓の外から、遠く、まだ帝国の旗を振る群衆の声が聞こえた。
ドヴォルザークはその声を聞きながら、目を閉じた。
「もっと共和団の人員を増やせ。全国に皆、散らばるんだ。次に会うときにはお前らがどこにいるかわからないくらいの人数を連れてこい」
長い夜だ。
しかし夜は、必ず明ける。
深夜、ロニーは執務室に一人でいた。
机の上には書類が積まれていた。ロバート誘拐作戦の準備報告。空軍建設計画。EU各国の軍事動向。
ロニーは黙ったまま、ページをめくっていた。
窓の外では、ヴェルナの灯りが広がっていた。
広場の歓声が、まだ耳の奥に残っていた。
咆哮、熱狂、涙。
——神様。
ロニーはペンを止めた。
あの少女の顔は見ていない。だが、なぜか頭に残っていた。
いや、違う。
正確には、“ああいう人間”を、ロニーは知っていた。
国家に救いを求める者。
強い指導者に、人生を預ける者。
恐怖から逃れるために、思考を手放す者。
そして自分は、それを利用している。
ロニーは視線を落とした。
机の上の書類。工場。兵站。空軍。占領地。死者数。
全て数字だった。
数字は裏切らない。
数字は管理できる。
管理できるものは、恐れる必要がない。だが、エルヴィンだけが、数字にならなかった。
ロニーは眉を寄せた。
その瞬間、自分が何を考えていたのか、一瞬わからなくなった。
静かな違和感だった。
ロニーはすぐに書類へ視線を戻した。
ペンを走らせる。
署名。
次のページ。
また署名。
窓の外では、帝国の灯りがまだ消えていなかった。
ロニーはふと思った。
いつから、自分はあの灯りを、“人間”ではなく“帝国”として見るようになった。
答えは出なかった。
だからロニーは、考えるのをやめた。
感情は、戦略の邪魔をする。
ペン先が、紙の上を走った。
夜明けまで、まだ長かった。




