交わる軌跡
父上、あなたの目指した場所に、俺は別の道で辿り着く——
記憶が、薄れた。
テーブルの向こうで、エルヴィンがロニーを見ていた。
「返答は」エルヴィンは言った。
ロニーはエルヴィンを見た。弟の目を、静かに見た。
「要求は受け入れない」
エルヴィンの目が、わずかに揺れた。
「……そうか」
「ただ」ロニーは続けた。「1つだけ聞く」
「何だ」
「お前は自分の意志で動いているのか」
沈黙が落ちた。
エルヴィンはロニーを見た。その目に、一瞬だけ、昔の弟の顔が戻った。困ったように眉を寄せる、あの顔が。
しかしすぐに消えた。
「俺の意志だ」
「そうか」
「それだけ?」
「それだけだ」
エルヴィンは立ち上がった。テーブルを回り、扉に向かった。
扉の前で、立ち止まった。振り返らずに言った。
「兄さんは……父さんの夢を継いでいると言っていたよな」
「ああ」
「父さんの夢は、世界を征服することじゃなかった」
ロニーは答えなかった。
「……じゃあな、兄さん」
扉が閉まった。
エルヴィンが総督室に入ると、アレン・デイヴィッドは窓の外を見ていた。
振り返らなかった。
「どうだった」
「断られた」エルヴィンは言った。「予想通りだろう」
「そうだな」デイヴィッドは静かに言った。「あの男が首を縦に振るとは思っていなかった」
エルヴィンは部屋の中央に立ったまま、デイヴィッドの背中を見た。
マスクに覆われた横顔。総督帽。何度見ても、その素顔が想像できなかった。
「1つ聞いていいか」エルヴィンは言った。
「何だ」
「あなたは兄さんのことを知っているのか」
デイヴィッドは少し間を置いた。
「なぜそう思う」
「わからない」エルヴィンは言った。「ただ——あなたがロニーの話をする時、何か違う気がする」
デイヴィッドは窓の外を見たまま、低く笑った。
「鋭いな」
そのまま、黙った。
エルヴィンは答えを待った。しかしデイヴィッドはそれ以上何も言わなかった。
エルヴィンは総督府を出た。
石畳の廊下を歩きながら、ふと足が止まった。
デイヴィッドの笑い方が、どこかで聞いたことがある気がした。
どこで——
記憶の中に、大学の廊下が浮かんだ。
ヴェルナ中央大学。エルヴィンが十六歳の時。
兄と同じ大学に進んだのは、偶然ではなかった。エルヴィンはロニーの隣にいたかった。ただ、それだけだった。
しかし大学でのロニーは、エルヴィンの知っているロニーとは少し違った。廊下を歩くだけで、周囲の空気が変わった。教授たちは一目置き、学生たちは遠巻きに見ていた。
ある日、食堂でエルヴィンは一人の男と隣り合った。
精悍な顔立ちの男だった。目が鋭く、しかしどこか暗いものを抱えていた。
「エスターライヒの弟か」男は言った。
「そうだけど」エルヴィンは答えた。「あなたは?」
「ルイス・エイデン」
その名前は、エルヴィンも聞いたことがあった。成績で常にロニーと首位を争っている男。
「兄さんと同じ学部だよね」
「そうだ」ルイスは言った。少し間を置いてから、続けた。「お前の兄はお前と違って——」
「変?」
「一言で表すならば、天才だ。だが——」
そこでルイスは口を閉じた。
エルヴィンは続きを待った。
「なんでもない」ルイスは立ち上がった。食器を持って、離れていった。
その背中を、エルヴィンは見送った。
あの背中に、何か重いものが乗っているような気がした。
その頃のエルヴィンには、それが何かわからなかった。
今ならわかる。
あれは——ただの嫉妬ではなかった。
証明したくて、証明できなくて、それでも諦められない人間の、重さだった。
記憶が、薄れた。
エルヴィンは廊下の途中で立っていたが、総督室の扉を振り返った。
違う。
そんなはずはない。
エルヴィンは歩き出した。足が少し、重かった。
ヴェルナの執務室。
ロニーは一人、部屋に残っていた。
静かだった。
机の上に視線を落とした。エルヴィンが座っていた椅子を、ロニーはしばらく見た。
まだ温もりが残っているような気がした。
気のせいだ、とロニーは思った。
しかし目が離せなかった。
ロニーは手を伸ばした。椅子の背に触れた。木の感触だけがあった。冷たかった。
当然だ。
ロニーは手を引いた。
お前は正しいかもしれない、エルヴィン。
しかし——正しいことが、正しい結論に辿り着くとは限らない。
それはかつて、ロニー自身がドヴォルザークに言った言葉だった。
今、その言葉が、自分に向かって返ってくるような気がした。
ロニーはそれを無視した。
帰国の翌朝、ハルトが執務室に来た。
顔を見た瞬間、ハルトは何かを察した。それ以上は聞かなかった。
「空軍の件で進展があった」ハルトは言った。
「聞く」
ハルトは地図と書類をテーブルに広げた。
「まず現状だ。我々はすでに戦術爆撃機の設計資料を持っている。工場と人員さえ整えば、製造は可能だ。ハンガリアと同じ土俵には立てる」
「しかし」
「しかし——」ハルトは資料の一枚を取り出した。「問題はこれだ。EUが開発しているとされる新型機。偵察情報では、従来の爆撃機とは次元が違う。航続距離、搭載量、ともに我々の想定を大幅に上回る可能性がある」
ロニーは資料を手に取った。
「戦略爆撃機だ」ハルトは言った。「都市ごと、工場ごと、壊滅させる規模の兵器だ。これが実戦配備されれば——」
「ヨーロッパはハンガリアのものになる」ロニーは静かに言った。「いや、それだけでは済まない」
ハルトは頷いた。
この世界では、もともと空を飛ぶ機械はあった。偵察に使う程度の、脆い機体だった。少し荒れた天候で墜落し、整備が悪ければ地上でも壊れた。戦争に使えるものではなかった。
それを変えたのが、ベイリー・ロバートだった。
一人の技術者が、爆弾を積んで飛べる機体を作った。戦闘機という概念がない世界では、空からの攻撃に対抗する手段がなかった。ハンガリアはそれで無双した。
そしてロバートは、今も開発を続けている。
「ロバートを止めなければならない」ロニーは言った。
「どうやって」
「奪う」
ハルトが顔を上げた。
「ベイリー・ロバートを誘拐する」ロニーは続けた。「EUから引き剥がせば、戦略爆撃機の開発は止まる。同時に、ロバートの技術をこちらが手に入れる。目には目を、だ」
ハルトはしばらく黙っていた。
「……正気か」
「至って正気だ」
「相手はEUの中枢にいる人間だぞ。警備も——」
「だからグラウがいる」ロニーは言った。「準備に時間はかかる。しかし戦略爆撃機が完成する前に動かなければ、手遅れになる」
「……わかった」ハルトは言った。「グラウと詰める」
「急げ」ロニーは言った。「時間は、向こうの味方だ」
ハルトが退室した。
ロニーは一人になった。
窓の外、ヴェルナの朝が広がっていた。街は動き始めていた。市場に人が出て、工場の煙突から煙が上がり、子供たちが学校へ向かっていた。
あの人間たちは何も知らない。
爆撃機のことも、エルヴィンのことも、ロバートのことも。
ただ今日も、帝国の旗の下で生きている。
ロニーはその光景を見ながら、思った。
俺が守らなければならない。
しかしその言葉が、今朝だけは、少し空洞に響いた。
ロニーは書類を手に取った。
感情は、戦略の邪魔をする。
それだけだ。
しかしその夜、ロニーが全ての書類を読み終えたのは、夜明けが近い時刻だった。
いつもより、三時間遅かった。




