前触れ
画像あるよ
東アジア大戦が終結した頃、ヨーロッパではすでに歴史が動いていた。
ロニーはそれを知っていた。知っていながら、止められなかった。
報告書が執務室に積み上がっていた。ロニーはそれを一枚ずつめくりながら、静かに読んでいた。
ワルシャワ・ミンスク共和国、消滅——
モスクヴァ国、ハンガリア国に降伏。実質的な傀儡化を確認——
ハンガリア国、バルト帝国・ゲルマン民族社会主義共和国・モスクヴァ自治政府との連合協定締結。「ヨーロッパ連合(EU)」発足——
ロニーはファイルを閉じた。
速い。
東アジア大戦の間、ハンガリア国は一度も手を緩めなかった。デイヴィッドが西に目を向けている間に戦争をしていたように、ロニーが東に目を向けている間にヨーロッパの地図を塗り替えていた。
「これが、奴の計算だったか」
ハルトが作戦室に飛び込んできたのは、その日の午後だった。
「ロニー、シベリア国の動向を見ろ」
地図を広げた。シベリア国の国境沿いに、モスクヴァ自治政府軍の集結が確認されていた。さらに——義勇軍の旗が混じっていた。
「義勇軍」ハルトは言った。「ハンガリアが送り込んだ連中だ。表向きは民間人の志願兵だが、装備が軍と同等だ」
ロニーは地図を見た。
「なるほど。」
表立って参戦しない。しかし義勇軍という形で実質的な戦力を送り込む。シベリアを取ることでロニーのエスターライヒ再構築計画を邪魔し、同時に勢力を広げる。しかしハンガリアの国旗は立てない。なぜなら——
「国境がエスターと隣り合うのを避けている」ロニーは静かに言った。
ハルトが顔を上げた。「見抜いたか」
「最初から見えていた」ロニーは地図から目を上げた。「シベリアを取ればエスターと国境を接する。そうなれば、今度は奴が守勢に回る必要が出てくる。だから傀儡に取らせる」
「ならば——」ハルトは地図を叩いた。「今すぐ動くべきだ。シベリアが取られる前に、こちらが先に手を打てば——」
「無理だ」
ハルトが眉を上げた。「無理?」
「軍の再建が終わっていない」ロニーは言った。「東アジア大戦で失った戦力は、まだ半分しか回復していない。今動けば——」
「しかしシベリアを取られれば——」
「ハルト」ロニーは静かに遮った。「相手はEUを組んでいる。ハンガリア、バルト、ゲルマン、モスクヴァ。四カ国連合だ。今の帝国の戦力でそれと正面からぶつかれば——」
「……」
「九十九パーセント、負ける」
作戦室が静まり返った。
ハルトはしばらく地図を見ていた。それから、苦い顔で言った。「空軍対策も、全くできていない」
ロニーは言った。「帝国に空軍はない。今ハンガリアと戦えば、空から一方的に叩かれる。それで終わりだ」
ハルトは椅子に深く座った。「……じゃあ、シベリアは」
「見ていろ」
「見ていろって——」
「今は見ていることしかできない」ロニーは静かに言った。「それが現実だ」
ハルトはロニーを見た。その横顔に、珍しく、苦さがあった。歯を食いしばっているような、静かな怒りが滲んでいた。
悔しいんだな。
ハルトはそれ以上何も言わなかった。
数か月後、報告が届いた。
シベリア国、モスクヴァ自治政府軍および義勇軍の侵攻により降伏。シベリア国領土、モスクヴァ自治政府によって併合——
ロニーはその報告書を読んだ。
机に置いた。
何も言わなかった。
ブダペストの総督府、最上階。
アレン・デイヴィッドは豪華な玉座に深く座り、報告を聞いていた。
「シベリア国、完全制圧確認。モスクヴァ自治政府への併合手続き、完了しました」
「そうか」
アレンは目を閉じた。
しばらく沈黙した後——笑い始めた。
低く、静かに始まったその笑いは、やがて総督府の広間に響き渡るほどになった。高らかに、天井に向かって笑い声が上がった。
「ロニー・フォン・エスターライヒ」アレンは玉座に座ったまま、天井を見上げて言った。「今頃どんな顔をしているんだ? 悔しくて、歯を食いしばっているか? それとも——あの無表情のまま、何も感じていないふりをしているか?」
笑いが収まった。目が細くなった。
「お前はあの頃から変わらない。いつも俺の上にいた。いつも、俺より先に答えを出していた」
アレンはマスクに手を当てた。素顔を隠すそのマスクの下で、口の端が上がった。
「だが今度は違う。ルイス・エイデンはもういない。今の俺はアレン・デイヴィッドだ。そしてお前は——俺が誰かも知らない」
そこにドアが開いた。
入ってきたのは、がっしりした体格の中年男だった。作業着のまま、油で汚れた手を拭きながら歩いてくる。
「総督! 聞いてくれよ! やったぞ!!」
ベイリー・ロバートは興奮した顔で書類の束を叩きつけるように机に置いた。
「今度はなんだ?」
「新型だ! 今までの爆撃機とは次元が違う!航続距離も、爆弾ももっと積める! これがあれば、空から何もかも終わらせられる!」
アレンはベイリーを見た。
それから、静かに笑った。
「そうか」
「そうかって、もっと喜べよ!!」
「喜んでいる」アレンは言った。「ただ、今は別のことを考えていた」
ベイリーは首を傾げた。「何をだ」
アレンは立ち上がった。窓の外、ブダペストの夜景が広がっていた。
「旧友への、挨拶状だ」
ベイリーは意味がわからないという顔をした。しかしアレンの横顔を見て、何も聞かなかった。
二人は並んで窓の外を見た。
やがて、二人の口の端が同時に上がった。
ヴェルナの執務室。
ロニーは遅くまで残っていた。
机の上に、一通の手紙があった。エルヴィンに書きかけた手紙だった。あの北京の一件から、二人は一度もまともに話していなかった。
ロニーはペンを取った。
エルヴィン、あの時俺は——
そこでドアがノックされた。
「何だ」
入ってきたのは、グラウだった。その顔が、いつもと違った。
「皇帝陛下」グラウは静かに言った。「エルヴィン様が——見当たりません」
ロニーはペンを止めた。「何?」
「今朝から、どこにもいません。護衛も、書記官も、誰も行き先を知らない。目撃情報も——」グラウは言葉を選んだ。「一切、ありません」
ロニーは立ち上がった。
「さらわれたのか」
「わかりません。争った形跡はない。しかし荷物も持っていない。自ら出ていったのか、連れ去られたのか——」
ロニーはしばらく動かなかった。
手紙が、机の上に残っていた。書きかけのまま。
「……全国に知らせろ」ロニーは静かに言った。「エルヴィン・フォン・エスターライヒの失踪を。目撃情報があれば即座に報告するよう、全部隊に命じろ」
「はい」
グラウが退室した。
ロニーは一人、執務室に残った。
書きかけの手紙を見た。
謝ろうとした。それが——
ロニーはゆっくりと手紙を手に取った。それから、引き出しの中にしまった。
窓の外、ヴェルナの夜が広がっていた。
アジアの大国となったという誇り。
だがシベリアはハンガリアの手に渡った。エルヴィンは消えた。ヨーロッパにはEUが生まれた。
それでもロニーは立っていた。
ただ、その目に、今まで見たことのない何かが宿っていた。
怒りでも、悲しみでも、焦りでもない。
もっと深いところにある、何かだった。
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