第9回「あれから数年、私はまだOLをやっている」
カチ、カチ、カチ――。
無機質なキーボードの打鍵音と、低く唸るエアコンの排気音が、深夜のオフィスに溶けていく。
蛍光灯の白い光が、デスクに置かれた書類の山を白々と照らし出していた。
乾ききった目元に、じわりと疲労の熱が溜まっていく。私は大きくため息をつき、ぬるくなった缶コーヒーを口に含んだ。舌に残る、安っぽい砂糖の甘みと強い苦味が、麻痺しかけた脳をわずかに刺激する。
(……二十九歳。アラサー。相変わらず、私は社畜のままだ)
高橋菜々子、二十九歳。
世界を救ったあの日から、5年の月日が流れていた。
あのポンコツ妖精との契約が解け、魔法少女としてのドタバタな二重生活は完全に過去のものとなった。
今の私は、ミニスカートを穿いて星のステッキを振り回すこともなく、毎日スーツに身を包み、取引先の無理難題に頭を下げる、どこにでもいるただの限界OLだ。
相変わらず身体は身長百五十センチメートル、メリハリのないままで、相変わらず会社のクソ上司からは都合のいいゴミ箱のように仕事を押し付けられている。
だけど。
チカリン、と。
デスクの隅に置いたスマホが、短い通知音とともに細かく震えた。
液晶画面に浮かび上がったのは、見慣れたアプリのアイコンと、三つのバッジ。
『心愛:ななこお姉ちゃん、今週もお仕事頑張りすぎてませんか?』
『ひまり:ななこちゃん! ウチ、今日のテストでいい点取れたよ!』
『凛:進路のこと、報告があります。近いうちに時間作ってください』
画面をスクロールする指先が、自然と緩む。
通知欄を埋め尽くす彼女たちの名前を見るだけで、不思議と、オフィスを包む冷たい空気の温度が少しだけ上がったような気がした。
(あの子たち、本当に記憶を消さなかったんだよなぁ……)
思い返せば、あれは完全な『若気の至り』であり、私の人生における最大の黒歴史だ。
二十四歳にもなって小学生のフリをして「ななこだよぉ★」などと宣っていたのだ。普通なら、恥ずかしさで悶絶してのたれ死んでもおかしくない。
だけど、あの奇妙ですれ違いだらけだった日々は、間違いなく私の人生の中で一番輝いていた、大切な宝物だ。
もちろん、あの三人との出会いも。
あの後も、彼女たちとの交流は途切れることなく続いていた。
さすがに頻繁に集まることはなくなったが、毎日こうしてメッセージが届くし、季節の節目や、彼女たちの進学のタイミングには、ビデオチャットで話したり、相談ごとにも乗ったりする。
「よし。あとひといき……っ」
凝り固まった肩をぐるりと回し、私は再びキーボードに指を走らせた。
画面の中で踊る数字の羅列が、少しだけ軽やかに見えた。
深夜二時。ようやくすべての業務を終え、私は誰もいないオフィスを後にした。
ビルの外に出ると、じっとりとした湿気を含んだ真夜中の風が、私の頬を撫でていく。
遠くで走るタクシーのテールランプが、アスファルトの路面に赤い影を落としていた。
カバンからスマホを取り出し、先ほどのメッセージに返信を打つ。
『みんな遅くなってごめんね! 連絡ありがとう。ななこも毎日お仕事頑張ってるよ。凛ちゃんの進路の話、いつでも聞くからね』
フリック入力する指先に、夜風の冷たさが染みる。
送信ボタンを押すと、一瞬で『既読』の文字がついた。
深夜二時だというのに、まるで見張っていたかのような速度だった。
『心愛:夜更かしは美容の敵ですよ、お姉ちゃん。早く帰って暖かくして寝てくださいね。……私たちの大切な身体なんですから』
(……ん?)
最後の数文字に、妙な引っかかりを覚える。
大切な、身体。
まあ、体調を心配してくれているのだろう。あの子たちも、もう高校生だ。少し大人びた言い回しをするようになっただけ。そう自分に言い聞かせる。
画面を閉じ、私は自宅アパートへ向かって歩き出した。
ヒールの音が、静まり返った住宅街に響く。
魔法少女の記憶は消えなかった。彼女たちは、かつてのリーダーである私を、今でも慕ってくれている。
それは、とても微笑ましくて、ありがたいことのはずだった。
なのに。
スマホを握る手のひらに、なぜか奇妙な、じっとりとした汗がにじんでいることに気づく。
風が凪いだ。
虫の声ひとつしない不気味な静寂の中、私は何故か、背筋を冷たい指でなぞられたような、奇妙な悪寒を覚えていた。
あの子たちは、確実に成長している。
私が知らない間に、私の手の届かないところで、大人の階段を上っている。
暗い夜道を歩きながら、私は、スマホの液晶が放つ淡い白い光の向こう側に、底の知れない、何か巨大な感情の渦が蠢いているような、そんな言い知れぬ予感に胸をざわつかせることしかできなかった。




