第7回「恐怖のパジャマパーティー」
ふわふわとした甘い柔軟剤の香りが、部屋の空気を満たしていた。
心愛の部屋。淡いピンク色で統一されたカーテンやぬいぐるみ、そしてフローリングに敷かれた柔らかいカーペットが、私の足裏を心地よく包み込む。
夜の九時。
普段なら、会社のデスクで泥のようにパソコンを叩いているか、終電の吊り革にぶら下がっている時間だ。しかし今の私は、ファンシーなクマのイラストが描かれた、モコモコのパジャマを着せられていた。
(危ない。ここは戦場だ。一瞬の油断が命取りになるっ……!)
私は、部屋の中央に広げられた布団の上に正座し、内心で激しく警戒のアンテナを張り巡らせていた。
今日は、チーム・パステル初のお泊まり会。
少女たちに「ななこちゃんも、絶対一緒に泊まって!」と熱烈に押し切られ、私は「親の許しをギリギリで得た小学生」という設定のもと、このパジャマパーティーに参加していた。
大人の境界線を守り抜くこと。それが今日の私の絶対ミッションだ。
お風呂の時は「おうちで入ってきたのぉ!」と頑なに拒否して難を逃れた。
しかし、本当の試練はここからだった。本物の子供たちとの、密室での夜。少しでも大人びた仕草や、社会人の垢がポロリと漏れれば、その瞬間に私の社会的生命は終わる。
「ねぇねぇ、ななこちゃん! ウチとお揃いの髪型にしよ!」
ひまりが、イチゴのヘアゴムを両手に持って、私の背後に回り込んできた。
ちいさな指先が、私の髪を優しく梳かしていく。くすぐったい感覚とともに、彼女のシャンプーの林檎の匂いが鼻先をかすめた。
「わぁーい! ひまりちゃん、おそろいだねっ♪ すっごくうれちぃなぁ!」
限界まで喉を絞り、必死でロリ声を絞り出す。
正面に座る心愛と凛が、ココアの入ったマグカップを両手で持ったまま、じっと私を見つめていた。その目は、夜の照明を反射して、どこか怪しく、深く、生温かい光を湛えている。
「ふふ、ななこちゃん、本当に可愛いね。パジャマ、すっごく似合ってるよ」
心愛が、おっとりとした口調で微笑む。
「うん。サイズもぴったり。……まるで、私たちのために誂えたみたい」
凛がマグカップの縁から、じっと私の生足を見つめて呟いた。
(ひ、引きつる……。顔の筋肉が限界だ……!)
私は笑みを張り付かせたまま、カルピスを一口飲んだ。冷たい液体が喉を通るが、緊張で味がほとんど分からない。
やがて、部屋の電気が消された。
カーテンの隙間から街頭の白い光がうっすらと差し込み、部屋の中に長い影を作る。
四人で並べた布団。私は一番端っこをキープし、壁を向かって丸くなった。
これなら、誰かに接触することもない。大人の理性を保ったまま、朝を迎えることができるはずだ。
「みんな、おやすみぃ……。ななこ、もうねむねむだよぉ……」
小さくあくびのフリをして、私は目を閉じた。
静寂が部屋を支配していく。
すー、すー、という、少女たちの規則正しい、静かな寝息だけが聞こえ始める。
その心地よいリズムに誘われるように、私の意識も次第に混濁していった。今日一日の緊張と、日頃の社畜としての疲労が、泥のように身体を重くしていく。
(あ、ダメだ……。本当に、眠気、が……)
カチ、と脳のスイッチが切れるように、私は深い眠りへと落ちていった。
◇
……ザワ、と。
肌に触れる空気の温度が変わった感覚に、私はうっすらと意識を浮上させた。
(ん……? 冷房、効きすぎ……?)
寝返りを打とうとしたが、身体が妙に重い。
何かに、がっしりとホールドされているような、身動きの取れない感覚。
薄暗い闇の中、ゆっくりと目を開ける。
最初に視界に入ったのは、すぐ目の前にある、さらさらとした黒髪だった。
(え……?)
心愛だった。
彼女は、私の布団の中に完全に潜り込んでいた。私の胸元に顔を埋めるようにして、小さな腕で私の腰をぎゅっと抱きしめている。彼女の規則正しい吐息が、私の鎖骨のあたりに直接当たって、くすぐったいほど熱い。
それだけではなかった。
背中側に、ずっしりとした確かな体温を感じる。
振り返ろうと首を動かすと、そこには凛がいた。彼女は私の背中を後ろから完全に包み込むように密着し、私のパジャマの裾をきゅっと握りしめていた。
さらに足元には、私の足首に自分の足を絡めるようにして丸まっているひまりの姿があった。
(な、なななな、何これ!?)
完全なる、菜々子包囲網。
私は三人の小学生に、前後左右から完璧に添い寝され、身動きが取れなくなっていた。
心臓がバクバクと破裂しそうなほど激しく脈打ち始める。
冷や汗が全身から吹き出し、パジャマが肌に張り付く。
逃げ出そうと、微かに身体を震わせた、その時。
「……ん」
胸元にいた心愛が、小さく身じろぎをした。
起きる、と思って私は息を止めた。
しかし、心愛の目は閉じたままで、彼女のちいさな手が、そっと私の頭へと伸びてきた。
なで、なで、と。
まるで行き倒れた子犬をあやすように、優しく、慈しむように、私の髪を撫で始める。
「……ななこお姉ちゃん……」
寝言のような、しかし、はっきりとした、低いトーンの声。
「いつも……お仕事、お疲れ様……。毎日、大変だよね……」
心愛の指先が、私の額の汗をそっと拭う。
「……頑張ってるお姉ちゃん、すっごく可愛いよ……」
トクン、と心臓が跳ねた。
背中側の凛が、私の背中にさらに顔を押し付け、ふう、と深い吐息をもらす。
「……お姉ちゃん、いつも良い匂いがする……。大人の、お姉ちゃんの匂い……。ずっと、私たちのリーダーでいてね……」
闇の中で、少女たちの言葉が、ねっとりとした熱を持って私の耳に流れ込んでくる。
寝言じゃない。
彼女たちは、私が寝ていると思っているからこそ、その本音を隠そうともせずに溢れさせているのだ。
彼女たちは私の全てを知った上で、この痛々しい夜の擬態すらも「健気で愛しいもの」として受け入れ、私の知らないところで、こんなにもクソデカい感情を育てていた。
だからこそ。
動けない。
声を出すこともできない。
ここで起きてしまえば、お互いの関係性が完全に崩壊する。大人のプライドが粉々に砕け散る。
私は、カチコチに身体を硬直させたまま、ぎゅっと目を瞑り、寝たフリを突き通すしかなかった。
薄暗い部屋の中。
少女たちの柔らかい体温と、甘い香りの檻に閉じ込められながら、私は己の社会的死亡の恐怖と、それ以上に胸を締め付けるような、逃げ場のない溺愛の重さに、朝までただ震え続けることしかできなかった。




